外交防衛委員会で質問

5月9日(木)午前10時から外交防衛委員会で質問の機会を頂いた。

今回与えられた時間は26分間、前回4月16日の質問でやり残した項目があったのだが、連休中にいくつかの対外交渉があったので、それを優先したらまた残った。

明日、動画を上げる事が出来ると思うので、主な項目と北方領土返還交渉について書く。

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⑴2019年版外交青書から「北方四島は日本に帰属するというのが日本の立場である」という記述を削除した理由を河野外務大臣に問う。
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⑵墜落したF-35A戦闘機の一部が5月3日以降見つかり、揚収した件について岩屋防衛大臣に聞く。

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⑶岩屋防衛大臣は5月2日にベトナムにおいて、ベトナムのゴ・スアン・リック国防相と、南シナ海の航行の安全について話合われたとの事だが、その内容について聞く。
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(上の写真は深山装備庁長官)

⑷防衛装備庁の組織のあり方について聞く、
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⑸超過利益返納条項付契約方式について聞く

 

今回の質問でどうしても発言したかった事は北方領土返還交渉である。

日本政府がロシアに対して一方的に譲歩しているように思えてならない。

自民党政調会でも、政府の進める北方領土返還交渉に懸念の声が出ているそうだ。

私も、河野外務大臣外交防衛委員会で「政府の法的立場に変化はない」と言いながら、「法的立場とは何か」と聞かれると答えない事が繰り返されたので、それを前提にして自分の考え方を述べたので以下に記します。

《今回の外交青書の記述変更も、一連のロシアとの北方領土返還交渉における、ロシアに対する日本政府の配慮でしょうが、一方でロシア国内における、プーチン大統領、ラブロフ外相の発言は日本政府の思惑とは全く違っており、日本に対する強硬な発言が続いております。

日本政府のロシアに対する思いやりが功を奏しているとは思えません、

これまで我が国が「北方四島は日本固有の領土だ」と主張してきたことから後退したと受け止められかねないと危惧するものです。

私は北方領土の問題は、主権の侵害に対して日本がどう対応するかの問題だと考えております。

1956年の日ソ共同宣言。これは平和条約締結後に歯舞群島色丹島を日本に引き渡すというものでした。

私は平和条約というのが、戦後処理が最終的に終わったということを意味する以上、平和条約締結後に残り93%の島の継続協議というのは事実上有り得ない話だと考えております。

プーチン大統領も2012年に、日本や欧州のおもだったメディアの代表と会合を行い、そこでは、56年宣言には2島を引き渡した後、主権がどちらの国のものになるかについては書いていない、とか歯舞・色丹、それ以外は一切問題外であるとかそういう発言をしております。 

そして1993年細川首相の時代の東京宣言は、4島の帰属問題を解決して平和条約を締結するというものでした。

ただこれは、必ずしも4島の返還という意味ではなく、帰属先は一切述べられておりません。

私はこれが日本の対露外交の基本方針だと思っております。

東京宣言によって初めて、4島の帰属問題が決定していないということ、つまり北方領土問題とは4島の問題だということをロシア側も認めたことが重要であります。

そして、小渕首相の時代の、1998年の日露間でのモスクワ宣言、この時に国境確定委員会というものを作っております。つまり、国境はまだ決まっていないということをロシア側も認めておりました。

ところが、プーチン大統領は2005年9月、平和条約問題に関連して、「第二次大戦の結果、南クリル(北方4島)はロシア領となった。国際的な諸文書、国際法でも認められている」と初めて語りました。

それまでは4島の帰属問題は決まっていないという事をプーチン自身が認めていたので、これは明らかに歴史の修正であります。

昨年2018年11月の首脳会談の合意には、日ソ共同宣言を基礎にして交渉を加速するという形で東京宣言を抜いてしまった。それまでは2001年のイルクーツク声明でも、2003年の日露行動計画でも、プーチンがサインしたものには、基本的な合意として平和条約交渉のための東京宣言を掲げていたのに、それを外したという事は、日本政府の譲歩と受け取られたのではないかと危惧します。 

最近ラブロフ外相は、「第二次大戦の結果を認めることが、これからのあらゆる交渉の前提である」という言い方をしきりにしております。

第二次大戦の結果、4島がロシア領になったという前提は、ロシアもプーチン自身も以前は認めておりませんでした。4島はいまだ未解決の問題だと認めていたわけですから、その前提そのものが間違っております。

河野外務大臣は、本年2月、ドイツのミュンヘンにおけるロシアのラブロフ外相との会談後の記者会見で「平和条約交渉は70年かけてやってきている、一朝一夕に解決することはないが、二人三脚でゴールにたどり着けるようにしたい」と発言したと報道されております。

私は、北方領土返還交渉は、香港の返還交渉のように、長い期間をかけて慎重に返還交渉を続けることを要望します。》

 

 

高知高ブラバンOB会に参加

8日(水)午後6時から、銀座の高知県アンテナショップ2階のレストランで、高知高校ブラスバンド部のOBで関東地方在住の有志が集まるので参加しませんかとのお誘いを、佐川町議である西森勝仁さんから受けて出席した。

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私は高校1年の時、1〜2ヶ月ブラスバンド部に在籍した事がある。

この会は西森さんが上京した機会に集まる会だそうだ。

同期生で防衛省に勤務していた戸田量弘さんとは今でも付き合いがある。大黒隆さんは高知市での同窓会で会って覚えていた。

西森さんは二つ上、その同級生である貞岡さんは、弟さんが自民党高知県連の職員を長く勤めておられて、弟さんとは知り合いであった。

また、末延さんは元海上自衛隊のヘリのパイロットで共通の知人がおり、話が盛り上がった。

最年長の上野さんと、川口さんは初対面であったが、話が弾み楽しい会であった。

沖縄で慰霊

5月2日、沖縄の旅の最終日は戦没者慰霊を行なった。

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上の写真は南部の八重瀬町にある、高知県戦没者を慰霊する「土佐の塔」、どなたかが数日前に訪れたのであろう、花が供えてあり、私も持っていった花を供えた。
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摩文仁の丘にある沖縄を守って戦った、日本陸軍第32軍司令部終焉の地の慰霊碑、左の墓誌には牛島満司令官、長勇参謀長以下数百名の司令部要員の名前がある。高知県人も8名の名前がある。

この慰霊碑から5〜6メートル降りた所に、牛島満司令官以下が自決された壕があり、花を手向けてお参りしてきた。
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上の2枚の写真はひめゆり部隊の壕にある慰霊碑、資料館に入り、あらためて犠牲になられた、ひめゆり部隊をはじめ、沖縄の民間学生達の戦いに思いをいたした。

この悲劇を二度と繰り返してはならない。

空手道剛柔流沖縄館と琉球古武道

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上の写真は剛柔流沖縄館の仲本喜一先生、今年91歳になる。連休の1日、私が教わっている琉球古武道の基本振りの指導を受けに行って来た。
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上の写真が仲本先生の琉球古武道の師匠である喜納昌盛師範の写真。

昨年訪れた時に、仲本先生の書かれた下の写真「道」の書の前で写真を撮ったのだが、その下に書いてある言葉に、数日前に初めて気がついた。

「人に打たれず、人打たず、事なきをもととするなり」と書いてある。

剛柔流の開祖・宮城長順先生の言葉だそうだ。

仲本先生はこの言葉通りの空手指導を実践してこられた。
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今年の9月には、沖縄で剛柔流沖縄館のセミナーが行われる予定で、現在のところ150名以上の海外からの参加者が予定されているとの事、是非参加しようと考えている。

令和元年をお祝いします

天皇陛下の即位と弥栄をお祝いします。

令和元年を沖縄市で迎えた。

場所によっては馬鹿騒ぎをやっているようだが興味はない。

昭和から平成へ移った時は、宿毛市でタイとハマチを養殖する漁師をやっていた。

あの時は大変厳かに式典が進行したのであろうか、テレビ報道はほとんど記憶にない。

東京宿毛会に参加

27日(土)午後6時から、霞が関法曹会館で東京宿毛会の懇親会があり出席した。多くの参加者で会場が狭く感じた。

宿毛市からも、中平富弘市長、岡崎利久市議会議長、立田雅弘宿毛商工会議所会頭、秋沢宿毛観光協会会長、沢田雄一梓会会長など数名が参加した。

この会は、戦後、吉田茂内閣が出来た時、吉田茂首相のご両親が(父は竹内綱、元国会議員)宿毛出身、副総理が宿毛出身の林譲治先生で、林譲治先生を応援するために東京在住の宿毛出身者が集まって開いたのが始まりだそうだ。

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(上の写真、左端が中平富弘宿毛市長、その隣は廣畑さん、佐竹さん)

明治維新以後、多くの宿毛出身者が東京へ出ており、その方達の子孫が中心であったそうだ。

現在の会長は宿毛の殿様であった伊賀朗氏さんだ。f:id:nakanishi-satoshi:20190428044727j:image

(上の写真、左端は宿毛高校東京会の高木三千年会長、その隣が私の弟・哲也、その隣は伊賀会長)
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(上の写真、左が宿毛の振興に取り組んで頂いている岡添さん、右は宿毛から参加の西村さん。)

今回も、維新の志士・岩村通俊の子孫や、出版社の富山房の創始者坂本嘉治馬の子孫の方と話をする事が出来た。

また、岩村通俊の息子である岩村通世は昭和10年代に司法大臣を務めたが、その時の縁でこの会場を使い続けているという事を、子孫の方から聞いた。

また、岩村通俊は明治10年西南戦争直後に鹿児島県令(知事)となり赴任した。

当時は西南戦争で賊軍とされた西郷隆盛先生をはじめ、多くの戦死者のご遺体が放置されたままであったのを、「今は賊軍と呼ばれても、後世必ず正当に評価される」と政府軍を説得して、ご遺体を丁重にお寺に埋葬した事が評価され、南洲墓地にその業績を讃える高さ4メートルほどの大きな石碑が建っている。

今回の会で岩村さんのご子孫の女性から、それは岩村通俊が県令として赴任するにあたり、大久保利通から戦死者の埋葬を密かに頼まれていたから出来た事だとの話を聞いた。

文書としては何の記録も残っていないが、岩村家に代々語り伝えられている話だそうだ。

初めて聞いたが、西郷隆盛と大久保利道の交友関係を考えれば納得のいく話だ。

東池袋の交通事故についての思い

4月19日、87歳の男性が運転する車が暴走し、横断歩道を渡っていた母子が亡くなられた。

犠牲になられた方とご家族に心からお悔やみを申し上げます。

残された夫、松永さんの気持ちを思うと、ブログで取り上げる気持ちにもならなかったが、夫の記者会見があった事を知り書く気になった。

お亡くなりになった母・真菜さんが31歳、娘さんが3歳だ、松永さんは32歳だそうだ。

今から三十数年前、私の妻と子供も同じような歳に大塚3丁目に住んでいて、子供を連れてよく近くの公園で子供を遊ばせていた。また、この交通事故の現場近くへも散歩に行っていた。

あの頃の事がよみがえる。子供が一番可愛い盛りの頃だ。家族、とりわけ妻と子供が一番大切だと思っていた。

何の罪もない妻と子供が突然いなくなるという現実は受け入れる事ができないであろう。

夫である男性の記者会見の様子は、インターネットニュースで静止画像は見たが、動画を見る機会もなければ見る気持ちにもなれない。

私も4年前に92歳で亡くなった父の運転について悩んだ。父が80代半ばを迎えた頃であったと思う。

近くの人から、私の父の運転が危なっかしいとの話を聞き、何度も父と話しあって運転免許証を返納させた。

都会は公共交通機関が発達しているので自家用車を持つ必要もあまりないと思う。

しかし、都会と違って、私の住んでいる高知の西の果てである宿毛市は、公共交通機関はバスしかない地域がほとんどで、バスが走っているのも国道沿いの一部だ。

この当時、私と似たような年齢の人達は、高齢ではあるが元気な親の持つ運転免許証について、皆同じ悩みをかかえていた。

また、私は県議会議員をやっていたが、県内各地でいかにして高齢者の運転免許証を返納させるかの課題があった。そして今もある。

私の父は免許証返納後は、遠くへ外出する時は、親戚の方を雇って車で連れて行ってもらう事が出来たからまだよかった。

家族が近くにいなくて、年金暮らしの高齢者は、タクシーを何回も雇って外出する事は出来ない。

近くの市では、運転免許証返納者に対して、市が月に何回分かタクシーチケットを無料で交付する制度を作ったところもあったが、これでも十分ではない。

最近では、高齢者が前もって予約の電話をするとワンボックスカーがタクシーがわりに使える自治体が紹介されていた。

この高齢者の運転免許証返納問題は、地方に住む高齢者の車輸送の問題と同一で、日本全国同じような悩みを抱えている。