高知道水の加工場視察

3日(水)午前9時30分に今年4月から宿毛市で稼働中の、(株)高知道水の水産加工場を視察した。

この会社は元々は中谷道水(株)という会社が大月町橘浦と安満地でマグロの養殖をやっており、現在もマグロ養殖は継続してやっている。

この加工場は事務員が4名と加工場で20名の雇用が増えた。来年の本格稼働までには、まだ10名ほど雇用したいという事です。

これまでは加工場が宿毛に無いために、一旦マグロを東京へ送って、マグロを短冊に加工して販売もしていた。

これからは、養殖マグロが安く食べられる。

また、地元で養殖されているタイとブリの加工も始めた。

将来は海外へ加工品を輸出する計画だそうだ。

案内していただいたのは高田潤工場長(下の写真の青いポロシャツ姿)、

2階にある事務所はこんな様子だ。

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下の写真は全景、宿毛の中心街から車で3分ほど、
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工場はHACCP対応で、中に入るのに精密機器工場に入るようなスタイルになる。
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上の写真はブリやタイの入口だ、
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上の黄色の箱がマグロ用、60キロほどの養殖マグロを入れる、
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私はこんなスタイルで視察した。これらの機械で切り身にして真空パックにする、ほぼ全自動だ。
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ほぼ全行程は機械化されており、最後の工程でタイの中骨を包丁で取り除いていた。
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上の写真は切り身にした後の金属探知機、こんなものまである事に驚いた。
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上も検査機械、
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タイの切り身は最後に発泡スチロールに詰められ、キロ数が表示されていた。
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上の写真は急速冷凍室、マイナス60度だ。

この左手に冷凍庫があった。マイナス60度がマグロ用で120トン入る。 餌はマイナス30度で保存し、1800トン入る、相当デカイ。

これはお金がかかっている。総工費21億円のうち8割程が機械設備費だそうだ。

県内各地訪問、満州と朝鮮半島

30日(日)午後5時から、弘田兼一県議の自民党室戸支部総会へ参加した。

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中谷元衆議院議員も参加した。宿毛の自宅から室戸まで、車で5時間かかる。

会場は「花月」元料亭だ、県議時代は委員会調査で毎年室戸を訪れ、ここで昼飯を食べた、料理は美味しい。

久しぶりにキンメダイや鯨などの、ご馳走をいただきました。

この日は香南市へ戻り、黒潮ホテルの温泉に浸かって疲れを癒した。

翌日は建設会社やビルメンの会社などを訪問した。

県内の大手建設会社で、高知県発注の建設工事の発注状況などを聞いたが、大きな工事はまだ発注が始まったばかりだ。

県の土木部へ行き副部長から状況を聞いた。

県の普通建設事業費は1千億円近くに増額されている、土木部だけで約7百億円だ、順次発注する作業を進めている。

新社屋に移った福留開発株式会社で、大場智公社長と話していると応接室に中谷元衆議院議員の「満福留魂」と書かれた書が飾ってあった。

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(上の写真が大場社長)

「満」は満州の意味で、先代の創業者である福留福太郎氏は、地元の満州開拓団数十人(60人との記録を見た)のリーダーとして移住し、戦後は苦労して満州から全員無事に引き上げた。

そして、戦後は中国残留孤児のお世話に尽力されたそうだ。その後、福留氏は私財4億円を投じて中国帰国者の定着センターを作った事を知った。

中谷代議士は、奥様のお祖父さんである元農協全国中央会会長であった藤田三郎氏が、同じく満州開拓団のリーダーとして移住して、福留福太郎氏と同じ立場にあった関係で、戦後、福留氏も藤田氏も中国残留孤児の帰国問題に取り組んだとの事であった。

その関係で、中谷代議士は国会議員になった当初から中国残留孤児の問題に熱心に取り組んだとの事であった。

私は県議時代に、高知県の中国残留孤児二世の日本語学習支援等の要望書を受けた。

その時に、中谷代議士がこの問題に熱心に取り組んでおり、当時はこういう背景があった事を知らなかった。

たまたまその日の晩は、中谷代議士の義弟である桑名龍吾県議が、高知県議会議長となったお祝いで個人的に飲む事になっており、この話で盛り上がった。

大場社長に私の思いを話させていただいた。

私は満州国を作った日本陸軍石原莞爾将軍を尊敬しており、石原将軍は本当に満州国五族協和の国にしようとする理想を持っていた。

軍人の石原莞爾将軍、大蔵官僚であり、満州国官僚として派遣された古海忠之氏など、その理想に燃えた人達がいたからこそ、満州国は短期間で素晴らしい実績を上げた。

しかし、日本民族は特別優秀であるとの認識を持ち、中国、蒙古、朝鮮などの民族を見下してその理想をぶち壊したのも日本人であった。

その陸軍の代表は東條英機である。

この時の対立を引きずったまま石原莞爾将軍は東條英機と対立して退役に追い込まれた。

また、満州国最後の実質的な首相であった古海忠之氏は、戦後も昭和38年(1963年)3月まで中国に抑留され、帰国されてから「忘れ得ぬ満州国」と題する回想記を書いた。

私はこの本を読んで感動し、その内容は数年前にこのブログに書いた。

また、戦後満州からの引き上げ者を虐殺したソ連軍の話もした。

老人と女性と子供ばかりの日本人引き上げ者の集団を、戦車とトラックなどで襲い、殺した葛根廟の虐殺事件。

それを見て憤慨し、8月19日武装解除していた陸軍練習機でソ連軍へ特攻攻撃をかけた11機の特攻隊がいた事を話した。

この時に、新婚の新妻を後部座席に乗せて突入した軍人が2人いて、その1人が谷藤徹夫陸軍少尉(22歳)であり、その事を書いた本が「妻と飛んだ特攻兵」である。

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妻は朝子(24歳)、数ヶ月前に結婚式を挙げた。

以前、このブログに書いたが、その時の辞世の歌がある。

国敗れて山河なし、生きて甲斐なき命なら

死して護国の鬼たらん

特攻機は全機行方不明、戦果は確認されていない。

日本は明治維新以降、明治27年(1894年)に日清戦争を、その10年後の明治37年(1904年)には日露戦争を、明治43年(1910年)には日韓併合をやった。

そして昭和7 年(1932年)には満州国を作った。

全てソ連ロシアの南下政策に対抗する政策であった。

明治維新以後の日本は政治家も軍人も、ロシアが南下して日本を侵略する。その緩衝地帯として朝鮮半島満州国が必要と考えたのである。

それらの政策は昭和20年8月の大東亜戦争の敗戦によって全て失敗に終わった。

それが正しかったかどうかは歴史が評価するであろうが、当時の政治家と軍人は、日本の独立を守るためにはそれしかないと考えた。

戦後74年経ったが、中国と韓国との間では未だこの問題は解決していない。

最近も日韓関係は悪化しており、7月1日に日本政府が半導体などの製造に必要な材料3品目の韓国向け輸出規制を強化する事を決定した事に、韓国政府が反発している。

国交断絶を視野に入れても良い、堂々と日本国の国益を主張すべきである。

歴史的に我が国が中国と朝鮮半島に関わると、ことごとく失敗する、関わりを避けるのが一番だ。

 

 

 

香川県、徳島県を訪問

28日(金)9時宿毛駅発の列車で高知へ向かい、高知駅から車で多度津へ、少林寺拳法本山で川島一浩会長へ挨拶。

学生時代の少林寺拳法部の話から武道談義まで話が弾む。参議院香川県選挙区から出馬予定の三宅候補の応援を頼んだ。

次に高松市へ移動し、香川県漁連を訪問した。

嶋野会長は東京出張で不在の為、永島、倉本両常務理事さんが対応していただいた。

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各階を回って挨拶する機会をいただいた。f:id:nakanishi-satoshi:20190630113224j:image

5時からは、香川県自民党ちんたい支部総会へ出席し、挨拶の機会をいただいた。
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ちんたい支部の吉田宏基支部長は昭和17年生まれとは思えない元気さ、二次会、三次会と招待され、そこで私はホテルへ戻ったが、吉田会長はもう一軒行くと夜の街に消えて行った。

ちんたい支部総会の前に国土交通省四国地方整備局を訪れ、平井局長に洪水対策の件で話を聞いた。

数日前にこのブログで、技研製作所の北村社長の洪水対策の自論の話を書いた。

そこで、現場を預かる整備局長に現状を聞いた。

やはり、予防措置を取るための予算が全く足りないとの事であった。

今年もおそらく日本の何処かで洪水被害がでる。

その対策として、河川の堤防強化や河床掘削などの洪水対策をやれば被害は防げる。

しかし、それをやる予算が足りていない。

国土強靭化の為に必要な予算だ。自民党では政調会で洪水予防の予算の増額を訴えている。

29日(土) 車で徳島市へ移動し、自民党徳島県連を訪問して松崎事務局長と選挙情勢の意見交換した。

その後、4月の選挙で新しく徳島県議となった福山博史氏を訪問した。

同じ石破派で親しくさせて頂いている、福山守衆議院議員の次男だ。

徳島県議会の自民党は新人議員が6名当選したそうだ。
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次に訪れたのは元県議の木南征美氏、私が参議院出馬の際には後援会長になっていただきお世話になった。

今年の4月で県議を引退して後輩に道を譲った。最近の国政を報告した。

その後、5時間かけて宿毛市の自宅へ戻った。

午後6時から宿毛湾港の84ターミナルで開かれている日本青年会議所高知ブロック地区大会の懇親会に参加、乾杯の挨拶をさせて頂いた。

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乾杯後、宿毛市内へ戻り、海上自衛隊第101掃海隊の宿毛湾港寄港の歓迎会に出席した。
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掃海隊司令の加藤知明2等海佐の話では、この日の朝、掃海管制艇「ながしま」「ゆげしま」の2隻が高知港を出港して、宿毛湾港に接岸し、艇内見学と体験航海を行い、沢山の市民が参加したそうだ。

通常国会の会期末

24日(月)は午後1時から参議院で安倍首相への問責決議案を反対多数で否決、25日(火)午後1時からは、解散の可能性が囁かれる中、衆議院で首相への不信任案を反対多数で否決した。

いずれの会議も野党の最後の抵抗で散会時間が未定で大幅に遅れるという予想もあったが、大した遅れもなく散会した。

野党は解散を恐れておっかなびっくりの態度がみえみえ、国民の目にどう写ったであろうか。

26日(水)は午前10時から各委員会と本会議で会期末処理の会議が行われ、参議院選挙へ向かう。

安倍総理衆議院解散を決断しなかった。10月には消費税増税が行われる。おそらく景気は下降線をたどるであろう。

そうすれば、来年年明けからの解散のタイミングを失う可能性が高いと思う。

国会は閉会した、「今月は衆議院解散はない」との話が官邸周辺から出ており、それなら参議院選挙後はあるのかとの話が出ている。

自民党四万十市支部懇親会に参加

23日(日曜) 午後6時から自民党四万十市支部総会後の懇親会に参加させて頂いた。

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四万十市支部は土森正典支部長から、息子さんの正一県議に交代し、幹事長には宮崎四万十市議会議長が就任して新体制となった。上の写真は真ん中が土森正典元県議、左右が新役員さんだ。

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私は沖縄のかりゆしウエアで参加し、昭和20年6月23日、今日沖縄戦の組織的抵抗が終わり、日本の陸海軍将兵約9万5千名と民間人10万人以上が亡くなられた沖縄の戦いの話をし、二度と再びこの惨劇を繰り返さないことを誓ったという話をさせていただいた。そして参議院選挙の応援もお願いした。
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高知県自民党青年局総会

22日(土) 松山市から高知市へバスで移動、2時間半ほどかかるが快適なバス旅だ。

高知県自民党県連青年局が、総会前の午後3時から高知県護国神社にお参りするので参加させてもらった。

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参拝後に記念撮影、別役宮司さんから元号・令和の話、天皇継承制度のお話を聞かせて頂いた。

午後4時からは、高知市内の高知大神宮で、昨年10月28日「海の日」の式典に天皇皇后両陛下を高知へお迎えした際に奉祝歓迎委員会を作って活動したが、その解散のための総会に参加した。

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尾崎正直高知県知事の祝辞、山本有二衆議院議員と共に祝辞の機会を与えて頂きました。

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私は挨拶の中で、平成14年に天皇皇后両陛下が高知国体に来られた時に高知県庁訪問があり、県庁玄関で最前列に立ってお出迎えした事、昨年の海の日の前日に行われた、城西館での懇談会の様子などを話した。

何よりも、大東亜戦争の激戦地である沖縄、サイパン島パラオ諸島ペリリュー島戦没者慰霊のために訪問されたことに感銘を受けた。

私は、とりわけペリリュー島を訪問され、戦没者慰霊碑に深く頭を下げられ、遥かに見えるアンガウル島に向かっても頭を下げられたお姿が印象に残っている事、ペリリュー島の戦いを簡単に話をさせていただいた。

この戦いは昭和19年9月15日に始まり11月27日まで約2ヶ月以上続いた。

島を守ったのは中川州男大佐率いる陸軍水戸第二歩兵連隊、歩兵第15連隊の第3大隊を中心とする約1万1千名、ほとんどが戦死された。

これに対して米軍は第1海兵師団、陸軍第81師団などの約5万名で攻めた。

米軍の猛烈な空爆と艦砲射撃で、日本兵は生き残っていないのではないかと推測し、リュバータス第1海兵師団長は、この島を3日で落とすと豪語した。

しかし、日本軍の猛烈な反撃に会い、ガダルカナル、マキン、タラワ、グァム、サイパンと南太平洋の島々で連戦連勝を重ねて来た米国第1海兵師団、その先陣を切った第1海兵連隊は、上陸後1週間で半数以上が死傷して全滅判定を受けた。

1ヶ月半後の10月末には第1海兵師団も全滅判定を受けて師団長は解任、陸軍第81師団に交代させられた。

その数ヶ月後、師団長を解任されていたリュバータス少将は病死した。

この戦いは、米国の戦史に、援軍が来る可能性もない、勝てる可能性も全くない戦いで、降伏することもなく最後の一兵まで戦い抜く軍隊があるのか、と書かれている。

私はこの戦いの後、硫黄島沖縄戦と続いた日本軍の猛烈な抵抗を受け、米国は日本民族に二度と軍隊を持たせないという強い意思のもと、憲法9条2項を作ったと考えている。

天皇皇后両陛下は、ペリリュー島の戦いを思い、十分なホテルがないために、大型巡視船に宿泊されて、搭載ヘリで島に渡るというご不便をご承知の上で、あえて慰霊訪問された事に大変な感銘を受けた。

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午後6時からは青年局の総会、懇親会に参加した。
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午後6時54分高知駅発の列車で宿毛の自宅へ、10時15分東宿毛駅着、護国神社参拝の前には高知新聞記者さんの取材も入り、忙しい一日でした。