高知県遺族会フィリピン慰霊巡拝団に参加して、その1

平成25年1月26日から2月1日までルソン島に行ってきた。
私は平成16年2月の慰霊巡拝団に参加して以来9年ぶり二度目の参加であった。
フィリピン周辺地域での日本人戦没者数は51万数千名(厚生省調査)、そのうち高知県出身戦没者数は陸海軍合わせて約4千6百名、高知県の地域別遺族会では戦没者の数が一番多いと聞いている。
しかし、大東亜戦争が始まってから今年で72年目を迎え遺児の方も高齢化が進んでいる。
そのため高知県フィリピン遺族会も、団体で慰霊巡拝団を派遣できるのは今年で最後であろうといわれたため、県議会からも武石議長、ファーマー土居議員、西内健議員、私、そして高知県遺族会会長である中内議員の5名が参加した。
また、尾崎知事も最終日に強行日程で慰霊祭に参加してくれた。
私は9年前の旅が、おんぼろバスに朝から晩まで揺られ、相当キツイ思いをしたので覚悟を決めて参加したのだが、空港へ迎えに来たバスは新しいバス、聞けばこのバスで最終日まで移動するという。

これなら体も何とかなると安心したが、それは甘かった。
初日27日(日)、午前7時マニラのホテル発、バスは北へひた走る、9年前と違って高速道路が北へ延びているのでわりと楽であるが、それも3時間ほどで一般道となった。
昼食後、つづら折りの山道を登り北部への入り口であるバレテ峠で一回目の慰霊祭を行う。
ここは昭和20年1月に米軍がルソン島中部西岸のリンガエン湾に上陸、反攻作戦を始めてすぐに東へ進み、山下兵団と激戦を戦った場所であり、米軍も大きな慰霊碑を作っている。
ここでは長山史子さんがこの地で戦死した父親に、市川勝美さんは兄に追悼の言葉を捧げた。

9年前もそうであったが、遺児の皆様にとって、父や兄が戦死した地に立った時点で70年の時間差はなくなる。
追悼の言葉に胸を打たれる。
9年前はここから北へは道路事情が悪くて行けなかったが、今回は山道を降りて行き、平地に出た。
米作地帯だそうで、年に三回お米ができる、青々とした平野が続く。
17時30分にバナウエのホテルに着いた。10時間30分のバス旅行であり、体に相当堪えた。
28日(月)二日目は9時50分にホテルをジープニーで出発、世界遺産になっている棚田を見学する。
一旦ホテルに帰り昼食、12時40分に南のキャンガンに向けて出発、13時50分キャンガン着、記念碑はマルコス大統領が作った公園の中にあり、慰霊祭は6組の遺児の方々が追悼の言葉を捧げた。

公園の側の小学校には、日本陸軍山下奉文大将が降伏した際に軟禁された宿舎跡が再現されて山下記念館となっており、丁度この日は係員がおり見学させてくれた。

(写真は山下記念館の前で西内県議と記念撮影、坂本さんはこの校庭で焼骨したそうである)
フィリピン遺族会会長の坂本功さんは、数年前に厚生省の遺骨収容団の一員としてこの地でご遺骨の収容にあたり、収容したご遺骨を、ここの校庭で焼骨したそうで、その時の写真が展示してあった。
(坂本さんの写っている写真の前で)
16時ファームスクールを見学、名の通り当時は小さな農業学校があったのを、日本軍が野戦病院とした跡地で、米軍の侵攻によって多くの患者と従軍看護婦が戦死したそうだ。
現在は農業大学になっており、たくさんの大学生がいた。

17時10分田舎町ソラノのホテル着、山道とはいえ走行時間が半日と短かったのでわりと楽であった。
ホテルは最悪、私は土居議員と同室であったが、明らかに一人部屋にベットを二つ置いたためクローゼットのドアが開かない、お湯はおろか水もろくに出ない、出たと思ったら茶色に濁った水が出た。
あまり使われていない部屋のようだ。バスタオルも一つしかないが、それもボロ布なので私の分を頼むのを止め、シャワーも浴びずに寝た。
風邪のためか喉が痛く、鼻水が出る、体調もホテルも最悪。