総務委員会県外調査その2

花巻市のホテルを8:20出発、10:20釜石市役所着
釜石市は、津波被害を受けた沿岸部に元通り多くの家が建っていた。
明治29年、昭和8年の三陸津波に加えて、チリ津波などで何度も津波被害にあっているが、やっぱり便利な場所に家を建てるのだろう。
我が故郷宿毛市も、300年前の宝永地震津波(海抜10メートルの津波高)、150年前の安政地震津波(同約5メートル)にあい、沿岸部の集落は「亡所になった」との記述があるが、今では沿岸部はもちろん宿毛市の中心地も建物が建ち並んでいる。
釜石市の防災危機管理課の猪俣係長、釜石市教育委員会の学校教育課佐々木課長、柏氏から「防災教育について」と題して説明を受けた。

柏氏からは、釜石市の小中学生が、日頃の避難訓練の成果で、独自で避難して99.8%が助かった取り組みを詳しく聞いた。
自宅に帰っていた生徒も普段の訓練の成果で、率先して家族を先導して高台に避難した話、家族を捜しに行って津波にのまれた人がいたようだが、釜石市の子供達は普段から、家族に対して、独自に逃げるから探しに来なくていいという訓練をしていたので、保護者も安心して各自が津波から避難することができた。
釜石市役所の前で撮影

陸前高田市は旧市役所、避難所に指定されていて100名以上が亡くなった市立体育館、15名の寝たきり老人がベッドのマットレスに寝たまま4階の窓から流されていったと聞いた県立陸前高田病院は解体されていた。
ダンプカーなどの多くの工事車両が走っていたが、津波被害を受けた地域に建物は一切建っていない。
市役所の仮庁舎が北の高台に建っているのでそちらで説明を受けた。

陸前高田市議会総務委員会佐竹強委員長は、歓迎の挨拶の中で、地震直後に津波被害を想定できなかったことが悔やまれると話された。
陸前高田市教育委員会学校教育課・熊谷健司指導主事、市総務部防災対策室大和田正室長から「防災教育について」と題して説明を受けた。その後
陸前高田市教育委員会学校教育課・三浦紀久果指導主事から「震災後の子供達の心のケアについて」と題する説明を受けた。
三浦指導主事は、学校は避難場所である。しかし、人口減少の中でやむを得ず2校を1校にまとめて、被害を受けた場所に建てざるをえなかったと話した。
「学校は避難場所」という言葉は印象に残った。
陸前高田市役所の仮庁舎前で撮影

陸前高田市では現在、30箇所で高台移転計画が進んでおり、その中には、旧市庁舎の山側に12.5m高の造成地を計画中であるとのことだった。
説明を受けた陸前高田市仮庁舎の隣は消防署、コミュニティホール、幹部交番、多目的広場などを含んだ造成地工事が進められていた。
16時終了、バスで仙台市へ移動し、18:55仙台市のホテル着。