ミクロネシア訪問記・その3

22日(火)は天気が良ければ森一族の所有する島に渡るという予定であったが、この朝も北の風が強く、波が高いので中止。
現地の方が歓迎の挨拶の中で、こんなに悪天候が続くのは珍しいと言ってたが、ホントかな。
この日は台風28号がこの近くで発生しているはずだ。
予定変更で9時30分にホテルを出発して、島の北端にある空港の近くの森小弁のお墓参りに行く。
地図で見ると、島の北と西側しか道路が無く、西側の道路はほとんど走ったが、デコボコ道で信じられない道路だ。
それでも、道路の半分ほどで水道工事をやっている。働く意欲はあるようだが、昨年来た人に聞くと昨年とあまり状況は変わっていないという。
森小弁のお墓は空港の東にある入り江を見渡せる高台にあった。
ここへ至る道路も悪く、ホテル所有の冷房の壊れているマイクロバスで来た我々は4輪駆動の車に乗り換えてたどり着いた。

お墓は孫の正隆さんが戦後に自分の敷地に改葬したもので、日本から取り寄せた墓石があった。
森家は神道だそうだが、そばには小弁の妻イサベラさんのキリスト教の十字架のついたお墓があった。
また、森ファミリーの食事会では、開会時に必ずキリストへの感謝の言葉を述べるので、ほとんどはキリスト教であろう。


トラック・ストップホテルへ戻って昼食。
昨日の我々が泊っているホテルのレストランの昼食はひどかった。
我々は5人で真っ先に席に着き、ラーメンと思われる物を注文した。その後三十数名のメンバーが入ってきてそれぞれ注文した。
我々に食事がきたのは一時間後、一番後だった。
何度か催促したがラチがあかない、あげくに来たのは焼きそば、千円でこの程度の焼きそばかとがっかりした。
この日は、我々はハンバーガーなどを注文して比較的早く来たが、犠牲になったテーブルがあり、数名が食べずに出たようだ。
ここに売っていたダイバー用のトラック諸島の地図が良かった。沈没した船や飛行機の履歴が書かれており、非常に役に立った。
昼食後、戦没者の慰霊碑に参拝、すぐ前の海に沈船の残骸があるが、この船が、戦後の船だという話と、戦時中の船だという話があり、よくわからなかった。

次に行ったのが、昨夜歓待してくれた女性たちのセンターで、日本のODA援助で建設されたそうだ。
その旨の表示板が目立つ所に張ってあった、見え難い所に小さく表示してある中国とは大違い、これが当たり前のことだ。
部屋に日本のどこかのロータリークラブから贈られたミシンが数台あり、女性の職業訓練に使われているそうだ。


夜は、空港の近くにある森ミノル氏の豪邸で一族の夕食会だ。
ミノル氏は小弁の息子六郎の子供だそうだ、経済的に一番成功している人だろうか、水道工事の会社などを経営しているそうだ。
ちょっとしたホテル並みの会場に森小弁の大きな写真と六郎の写真だろうか飾っていた。

我々が会場に着いたのが午後6時半ごろ、夕食会のセレモニーが始まったのが7時50分ごろ、「郷に入れば郷に従え」でビールを飲みながら、通訳のピーター君相手に雑談していた。
ここで、ポンペイ州からチューク諸島へ渡る際に通訳として紹介されたピーター氏が、森田議長の通訳として現地で雇われていることを初めて知った、森田議長も数時間前に知ったと言う。
日本で5年ほど働いたことがあり、今回雇われたそうだが、私が英語は得意かと聞くと、あまり得意ではないと言うし、故郷のポンペイ語は話せるがチューク語は全くわからないと言う。
このピーター君、悪い人ではないが通訳らしきことは何もしないで我々に同行していたことがわかり大笑い、憎めない男であった。

会場では一族の子供たちが日本の歌「結んで開いて」などを披露してくれた。


庭ではどこかの島からやってきた一団が、手拍子のみでダンスを披露してくれた。

23日(水)午前9時ホテル発、9:35チューク国際空港着、思いがけず早く着いた。
全く冷房の無い空港ロビーで荷物検査、金属感知器が無いので、ユナイテッド航空の制服を着た若い係官が全員の荷物を開けて調べているが、眺めているだけだ、分かるわけがない。
暑い中でトランクの鍵をはずし、縛っているベルトを外すのに大汗をかいた。

2001年、アメリカで2.11国連ビルテロがあった一ヶ月後にロサンゼルスに行った時に荷物を開けて調べられて以来である。
37年前に新婚旅行に来たという森田英二議長の話では、その時にも全て開けて調べられたとのことである。
ニューギニアでもこんな事はなかった、しかも待合室は吹きさらしで暑い、これはニューギニアのポポンデッタもそうだったが、ニューギニアには機会があれば再訪問したいと思っているが、チューク諸島は?だ。
飛行機は定刻の11時45分に出発、1時間ほどで(現地時間は+1時間)午後1時55分にポンペイ空港に着いた。
帰りの飛行機は、ポンペイ空港で乗り換え、二時間ほどの待合時間だが、ここの待合室は冷房が効いており一息つけた。
ここでも歓迎セレモニーがあり、またお土産をいただいた。

この空港で、韓国製のカップラーメンにやっとありついた、キムチ味で少し辛いが、1ドル75セントで上等の味でした。
高知空港へのチャーター便は、また予定より30分早く現地時間午後3時30分ポンペイ空港発、チャーター便の利点か。
この連邦の未来はどうなるのだろうか、米国にとって米ソ冷戦の時代は、まだソ連に対する牽制でこの地域を委託統治する意味があったと本には書いてあるが、どうも怪しい。
インフラの整備状況から判断すると、グアム島サイパン島と違って全く重要視されていなかった事が推測できる。
日本の統治した30年ほどが良かったようで、日本に対する現地の評価が高いと聞いた。
ポンペイ島はまだ道路事情はよかったが、ウエノ島は全く整備できていない。
そもそも整備する必要があるのか疑問だ。車はほとんどが日本製、わずかに米国製のトラックと韓国の起亜自動車の乗用車を一台見かけただけだ。
乗用車は特権階級の持ち物だろう、道路整備をしたとして、保守整備はできるのか。
トラック諸島は戦争中に沈められた日本軍の艦船や飛行機を目当てのダイバーが多いそうだ。観光で生きるのなら道路整備も必要だろうが難しそうだ。
この地域はそもそもパンの木、ヤシ、タロイモ、バナナ、マンゴーなど食べることには困らない地域だそうだ。
貨幣経済を持ち込んだことが失敗かもしれないが今更後戻りはできないだろう。
日本との交流を強く望んでいることがよくわかった。
そんなことを考えながら、今回の視察記を機内で書いているうちに、日本時間午後6時40分高知空港に着いた。
機内で30ほど待たされたが、成田空港や関西空港で乗り換えて高知に帰ることを思えば本当に楽である。