ココダ再び「ココダの約束」西村幸吉さんも同行・その1  

7月5日(土)午後9時05分、成田空港発のニューギニア航空の飛行機でニューギニアポートモレスビーに向かった、3年ぶりの慰霊の旅だ。

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昭和17年7月、ラバウルに進出した日本軍に抵抗したのはオーストラリア軍と米軍で、ポートモレスビーからラバウルへ激しい空襲を繰り返した。

そのため、日本軍はポートモレスビーを占領してラバウルの安全を図ると同時に、オーストラリア北部地域の制空権を手に入れる、これがポートモレスビー攻略の公式戦史の理由だ。

当初は海軍による占領計画があったが、世界初の空母艦隊同士の決戦といわれた昭和17年5月のサンゴ海海戦で日本海軍は空母「祥鳳」沈没、空母翔鶴」大破の損害をだし、一方米海軍は空母レキシントン」、油槽船「ネオショー」、駆逐艦「シムス」が沈没、空母「ヨークタウン」が中破という損害を出した。

このため、海からのポートモレスビー攻略をあきらめ、陸上からの攻略作戦に切り替えたが、北部海岸から南部のポートモレスビーに行くまでには標高3千メートル級のオーウェンスタンレー山脈があり、しかも車の通れる道路も無い状態であった。

そのため、当初はこの作戦はあまりに補給の準備がいるとのことで中止になりかけたが、視察に来た大本営参謀・辻正信中佐の「モレスビ―攻略は陛下のご意思である」とのウソの発言で、計画実行が決まった。

この実行部隊が南海支隊であった。中心となったのは高知市朝倉で編成された3500名からなる歩兵第144連隊であり、これに広島県福山市で編成された歩兵第41連隊、高槻市で編成された独立工兵第15連隊が加わった。

歩兵第144連隊は、歩兵第44連隊(鯨部隊)の後で編成されているが、善通寺の11師団の管轄ではなく、日本唯一の大本営の直轄部隊であった。

また、通常の歩兵部隊ではなく、米国の海兵隊と同じく、上陸・侵攻を専門とする部隊であった。

ここに所属したのが西村幸吉氏であり、第5中隊第3小隊56名中唯一の生き残った兵士である。

歩兵第144連隊は昭和16年12月9日にグァム島に上陸、次いで昭和17年1月22日にはニューブリテン島ラバウルに上陸、ここで初めてオーストラリア軍と戦闘をした。

ニューギニア上陸は昭和17年3月8日で、北部のサラモアに上陸した。

ポートモレスビー攻略作戦は同年7月21日から始まり、オーウェンスタンレー山脈の道なき道をオーストラリア軍との戦闘を続けながら進み、ポートモレスビーの灯が見えるイオリバイワまで進軍したが、大本営ガダルカナル作戦重視(同年8月から始まっていた)の方針により、同年9月25日に撤退命令が出て引き返した。

この時期、当初の懸念どおり日本軍の補給も続かなかった、ガダルカナル作戦と同じく、補給軽視の日本軍の弱点が早くも出た。

兵士は食料も無く、餓えと病気と戦闘で死んでいき、結果は昭和18年1月にギルワから撤退するまでに南海支隊は壊滅した。

以上がポートモレスビー攻略作戦の概要である。

今回は予想外であったが、94歳の西村幸吉さんが車椅子に乗り、長女の幸子さんと共に参加した。

そして、尾崎知事代理として井奥地域福祉部長と、戦没者遺族担当の礒野さんが同行した。

昨年は人数が集まらず実行出来なかったそうで、今回が最後の慰霊団となるかもしれないという。

今回も当初は希望者が少なく、慰霊団を組めるかどうか不安であったが、一般参加者が増え、遺族もお孫さんである飛崎利永子さん、濱田真理さん、濱田けいさん、山崎優一君の4名を始め計9名が参加した。

そして一般からも9名が参加、陸上自衛隊第50普通科連隊の現職自衛官2名も参加し、遺族ではないが南海支隊戦友遺族会の役員である元県議の大石宗氏、ファーマー土居県議、私などが参加し総勢28名になった。前回の3年前が30名だったのでそれに匹敵する人数となった。

一般の参加者は、観光目的の全くない旅なので、西村幸吉さんの本を読み南海支隊の戦いを語り継がなければいけないという熱い思いを持った方ばかりである。

 

飛行時間約7時間、6日(日)の現地時間午前5時頃、ニューギニア南部の首都ポートモレスビー空港に到着、機内では1時間ほどしか寝られなかったので体がキツイ。

国内線に移動して、ボンバルディアのQ400型でポポンデッタに向かった。

こちらは飛行時間30分、ターミナルビルのないポポンデッタ空港に着いた。

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(写真は車椅子に乗っているのが西村氏、ポポンデッタ空港着)

それから車(前回はなかったマイクロバスだ)で約20分走りホテル着、前回と同じコンフォートインホテルだ。

着替えをして、 午前9時ホテル発でギルワに向かった。3年前より少しはマシなトヨタランドクルーザーで、5台に分乗した。

西村幸吉さんと娘の幸子さん、高知県の地域福祉部の井奥部長、地域福祉政策課チーフの礒野さんの乗った車は日本でも見かける普通の座席だが、我々の乗るランドクルーザーは、運転席助手席以外は取っ払って、横向きの座席を取り付けてあり、これに8名が乗る。座布団を持ってきて正解であった程度のクッションが付いている。

今回は散弾銃を持ったポリスが2名と、あまりあてにならない民間人のガード役が1台の車に2名ずつ乗っている。1台に合計10人が乗っている。この車がレンタカーであることを初めて知った。

前回よりは多少道路の舗装も良くなっているとはいえ、ガタガタ道を2時間車に揺られるのは相当体に堪えた。

11時頃、ニューギニア北部の海岸ギルワに到着、昭和17年11月、ポートモレスビー攻略作戦から撤退した日本軍が最後の抵抗陣地を築いた地で、近くには野戦病院があった。今回私は初めて野戦病院跡地も視察し黙祷を捧げた。

今回も地主が、草木を刈り取って慰霊祭の準備をしてくれていた。

この地主の歓迎の挨拶を受けた。今回は地元のラジオ局の人が、iPadでコメントを入れながら録画していた。

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(写真:右の背広姿が県の井奥部長)

30分ほどで準備を終え慰霊祭が始まった。

慰霊祭は献花、国歌斉唱に続き、君が代、国の鎮めのラッパ吹奏が流れる中で黙祷、追悼文朗読の順序で行われた。

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ここでは井奥部長が尾崎知事の追悼文を朗読、大石宗元県議、ご遺族は、叔父様の慰霊の田所満穂氏(写真)、小松満次氏のご兄弟、父上の慰霊の安岡公子さん、兄上の慰霊の山本忠氏、祖父の慰霊の濱田けいさん、濱田真理さん山崎優一君の7名が追悼の言葉を述べた。

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山崎君はまだ二十代であろうが、しっかりした歴史観を持っており、彼の追悼の言葉を聞きながら顔をクシャクシャにして涙を流している男性がいた。

各自で焼香の後、南海支隊の奉賛歌である「暁に祈る」を全員で歌って終了。

前回は、ここであまりの暑さのために何名かのご遺族が倒れ、私も意識朦朧となった。今回は暑さはましだった。

午後1時20分頃ギルワを出発、野戦病院跡地も綺麗に整理してくれていた。

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次のブナは地図で見るとすぐ東側の海岸だが、道路が一旦内陸に戻って、再度海岸に行くので2時間30分かかった。おまけに砂浜で2台の車が砂にタイヤをとられ、数十メール歩いた。前回はここで同じ事情で数百メートル歩いた。

今回も慰霊碑のある場所で歓迎の踊りをしてくれた。

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吉田茂元首相の書いた慰霊碑がある。4時20分から慰霊祭開始、

ここでは井奥部長、私、ご遺族の山崎哲郎氏、自衛官の濱田雄矢氏が追悼の言葉を述べた。

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(写真:中央の白服がブナでの戦闘の概要を説明する辻本喜彦・南海支隊戦友遺族会事務局長)

午後5時10分ブナ発、午後6時40分ホテル着。

夕食の時に、私が「明日はホテルで静養したいね」と冗談を言ったら、たまたま、その時に西村幸吉さんが、同行のご遺族の女性から「よくそのお年で同行できますね、お体がきついでしょう」と話かけたら、西村さんは「これが私の務めです」と答えた、本当に頭が下がる。