有馬哲夫「1949年の大東亜共栄圏 自主防衛への終わらざる戦い」を読んで

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最近の憲法改正の議論の中で、吉田茂元総理が昭和26年(1951年)9月に署名し翌年4月に発効したサンフランシスコ講和条約の後で、日本国憲法を改正しなかったのは吉田茂の失敗だったとの論調が見られる。石原慎太郎氏もそのうちの一人だ。
私はこの意見を聞く度に「それは違う」と思う。
当時、旧帝国軍人の一部が帝国軍隊の復活を策す工作を行っていた。吉田茂先生は大東亜戦争中に東条英機元首相によって大変な圧力を受け、真から軍人嫌いになっていた。その事実は吉田茂関係の本に度々出てくる。
そのため、この時期に旧軍人主導の軍事組織を作ると将来を誤ると考え、これらの勢力を排除し、日本の経済復興を優先させた。それが戦後日本の経済復興を遂げた要因となっていると思うからである。
今年6月に出版された有馬氏のこの本は、それらの人物の活動を、戦後、アメリカ情報公開法にもとづいて公開されたCIA文書などを丹念に調べ上げて調査している。
同書によると、当初の再軍備の中心人物は宇垣一成元陸軍大将や有末精三元陸軍中将、河辺虎四郎元陸軍中将、そして、服部卓四郎元陸軍大佐などであり、彼らは占領軍司令部GHQの参謀2部部長ウィロビーの後ろ盾で、それぞれが特務機関を作って暗躍した。
とりわけ服部元陸軍大佐は警察予備隊を作った際、旧軍人の名簿リストを作り、自ら警察予備隊のトップになろうとしたが、吉田茂に阻まれたといわれている。
朝鮮戦争の勃発後間もなく昭和25年(1950年)7月8日、マッカーサーは、ポツダム政令によって7万5,000人の警察予備隊を作ることを吉田に命じ、8月10日に発足させたが、本部長官に就任したのは元内務官僚の増原恵吉氏であった。
同書から服部の考え方を引用する、「服部の再軍備の次の目標は大陸進出であった。それを服部達は隠そうともしなかった。だから、リッジウェー体制下のCICは服部に対し不信感と計画警戒感をあらわにしているのだ。・・・
服部の作った「編成大綱」、そして服部グループが51年6月に書いた「国防国策」には次のような大きな目標が書いてあった。日本は国家生存のため(ボツダム宣言受諾で失われた)旧領域(大戦前の領土)を回復するとともに基礎資源を主として大陸就中鮮満の範域に於いて充足し又その他必需資源の充足を南方および米国に期待しうること。
つまり、アメリカとソ連の脅威から逃れ、国家を安泰にするには、再び旧領土を取り戻して、基礎的な資源を朝鮮半島満州から十分得られるようにしなければならないということだ。・・・
戦前・戦中に大東亜共栄圏を築くために作戦を練っていた服部にとって、日本の国防とは、日本に影響が及ぶ周辺東アジア地域を、アメリカとソ連の脅威から防衛することだった。周辺領域をアメリカやソ連に軍事的にコントロールされていては、日本本土だけ守ろうとしたも守れないからだ。・・・
服部にはアメリカを使って、共産主義勢力を追い払った後、再びアメリカの支配下に入るつもりなどさらさらない。むしろアジアの近隣諸国と連合して日本を中心とする第三極を作って、支配されないようにしなければならない。そうでなければ、米ソ対立の中で、第三次世界大戦に巻き込まれることになる。」
大東亜戦争を戦った服部参謀の戦略としては良くわかる。
しかし、私はこの戦略には賛成できない。単独で国防をまかなうのではなく、日米安保条約をもとにしてこの国の安全を守る政策が最良であったろうと思う。
そもそも服部元陸軍大佐を引き立てて国防軍編成を命じたのはウィロビーであったが、GHQの占領目的は日本の軍国主義の復活の目を摘む事が重要な目的の1つであったのに、それに逆行することになった。そのため、マッカーサーの解任によって、彼の右腕であったウィロピーも解任され、その後任としてマシュー・リッジウェーが就任した後、リッジウェーは服部を嫌い、服部の野望は実現できなかった。
先にあげた服部元陸軍大佐の戦略を、当時の吉田茂総理がどの程度認識していたかは明らかでないが、相当危険な人間であると考えていたのだろう。
敗戦後も旧軍人達が、戦後日本の独立を願って行動したのは事実であろう。しかし、敗戦後経済復興を遂げるのは20年後である。戦後10年で国防費を増大させれば経済復興は出来なかったであろう。
何よりも、帝国軍隊の指導的立場にいた人達が、敗戦の責任を取らないままに国の指導的立場に復帰すると同じ過ちを繰り返しかねなかったと、私は思う。
それでは日本はいつの時点で憲法改正に踏み切るべきであったか、過去を振り返っても仕方がない。
今を生きる我々が出来るだけ早い機会に憲法改正を実現させ、日本を真の独立国家にすべきであると思う。