特攻出撃70年

今日10月25日は大東亜戦争末期の昭和19年10月25日、フィリピンのマバラカット基地から日本帝国海軍の神風特別攻撃隊敷島隊が出撃、戦果をあげた日で、数日前から産経新聞やインターネットニュースで流れている。
産経新聞10月23日の記事では、「英霊6418柱 忘れないで」という題と「誇りに思わにゃいかん」という大見出しがついている。
そして、特攻隊の犠牲者数は6418柱となっている。
集計数字にはバラツキがある。
犠牲者数のバラツキは、特攻隊をどう捉えるかによって変わるのであろう。
その成果についてはあまりに書かれない、概ね大した戦果はなかったという記事が目立っていた。
しかし、昨年私が読んだ本では、戦果は次のように書かれている。
神風特別攻撃隊の成果
昭和19年10月25日から、
海軍機   2,367機、2,524人戦死
陸軍機   1,129機、1,386人戦死
戦死者合計 3,910人
[連合軍損害]
艦艇  278隻、
戦死者  12,300人
重傷者  36,000人

海軍機  1,026機、戦死者1,997人
陸軍機     886機、戦死者1,021人
合計
  1,912機、戦死者3,018人
[連合軍損害]
沈没艦艇50隻、損害艦300隻以上、
損失航空機700機、
戦死者5000人(米軍戦史記録)
戦時神経症、
沖縄戦だけで26,221人

以上は航空特攻のみである、これだけでも大変な戦果である。
これに加えて、モーターボート震洋艇による水上特攻、特殊潜航艇による攻撃、人間魚雷回天による水中特攻などがあった。
これらの特攻攻撃については賛否ある。毎日新聞のインターネットニュースでは、ある評論家を通じて特攻攻撃を評価することに対して非常に否定的なコメントを載せていた。
神風特攻隊敷島隊の指揮官であった関行男大尉(当時)の母は、戦時中は「軍神の母」として評価され、敗戦後は「戦争協力者の母」として大きな批判にさらされ、昭和28年10月に還暦前に失意の中で亡くなったと聞いた。お墓は愛媛県四国中央市にあるそうだがまだ訪れる機会がない。
当時も現役パイロットから特攻攻撃に対する批判の声が上がったことは多くの記録がある。
私は戦後、当時の事を実感出来ない者が特攻攻撃を「無駄死にであった」と批判することを許さない。
これまでも、このブログに何度も書いて来たが、私は靖国神社遊就館霞ヶ浦航空隊跡の予科練記念館、山口県徳山市(周南市)大津島にある人間魚雷回天記念館、鹿児島県鹿屋基地にある海軍特攻隊記念館、知覧の陸軍航空特攻記念館などで、特攻で命を国に捧げた若者の遺書を何度も読んできた。
国の為に死ぬという内容よりは、愛する人の為に死ぬという内容が多い。愛する人は両親や家族であったり、妻や恋人であったりする。
その純粋な心には本当に頭が下がる。その純粋な心情は私の子や孫に伝えてゆくし、できるだけ多くの方に知っていただく。日本人の誇りだと思う。
また、特攻生みの親と言われ、敗戦の翌日、自宅で割腹自決された大西滝治郎海軍中将も尊敬している。
その遺書にはこう書かれている「特攻隊の英霊に申す、よく戦いたり深謝す、最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり、然れどもその信念は達成し得ざるに至れり、我死を以って旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす・・・」
大西滝治郎中将は敗戦の数日前に、あくまでも敗戦決定に反対し、もっと特攻を出せと主張し、気が狂ったと言われたとの記録がある。
この時期に、特攻という形で多くの若者が死ななければ日本が歴史から抹殺される、との思いがあったのではなかろうかと私は推測している。