高知県戦没者慰霊祭と「最後の特攻」

11月1日(土)午後1時から高知市のオレンジホールで高知県戦没者慰霊祭が行われた。
慰霊祭は毎年県知事の追悼の辞から始まる。(下の写真は尾崎知事)
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戦後69年が経ち、年々ご遺族の参加者は少なくなる。今年は県下を10のブロックに分けて代表者4名ずつが壇上に上がって献花、他の参加者は自席で起立して一礼をする。
その様子を眺めていたが、未亡人はあまり見えない。
今年は衆議院議員中谷元石田祝稔両代議士、参議院議員高野光二郎、広田一の両議員が参列された。これだけ揃ったのは久しぶりだ。県議も沢山参列している。
昨日、高知へ行く途中で、黒潮町の「神風特攻隊第一号」といわれる菊水隊の一員である宮川正(せい)・一等飛行兵曹(特攻後少尉に昇進)のご遺族を訪ねた。
私の中央大学少林寺拳法部の後輩である林壮吉君が黒潮町に住んでおり、彼が宮川家の場所を調べてくれており、彼の先導で訪ね、正さんの甥になる宮川速雄さんにお会いする事が出来た。
突然の訪問にもかかわらず、家に上がって下さいと言われ、家で話を聞けた。
さんさんテレビの取材でカメラ撮影を拒んだ速雄さんの父上の晋さんは、取材の翌年にお亡くなりになり、母上も昨年亡くなったとのことで、神道の神棚にご両親の写真と、伯父にあたる宮川正・一等飛行兵曹の写真があり、お参りさせていただいた。
下の写真は神棚のある部屋の壁に飾ってある宮川正少尉の写真であり、速雄さんの許可を得て撮影させて頂いた。
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宮川さんの祖父宮川春次郎さんは大方町の元町長、その兄の竹馬さんは四国電力の初代社長だそうだ。
また、父晋さんは大方町議会議員をやられており、林君の亡き父上も同時期に町議会議員を勤めていたそうで話が合った。
高知で開催されている特攻の企画展の話をすると、速雄さんは「家から写真や手紙を持って行っております。」と話された。
また、きょうの夕方、高知からの帰りに、先日訪問した同じ黒潮町の特攻隊ご遺族の野並萬さんの奥さんを、再度お礼のために訪問したら、娘さんが高知市に住んでおり、昨日娘と一緒に特攻企画展を見てきたとの事であった。
そして、前回書き残した「最後の特攻」の事である。
以下の文章は高知さんさんテレビの作成したDVDの説明書に基づく。
「昭和20年8月15日、天皇陛下玉音放送がある前に、特攻攻撃命令により千葉県の木更津基地と茨城県の百里原基地から特攻出撃した9機18名の海軍特攻隊員の中に2名の高知県出身者がいた。
彼らは房総半島沖の米海軍機動部隊に特攻攻撃を敢行し、全機撃墜された。
日本軍の資料では、「最後の特攻」として記録されているのが木更津基地から出撃した高知県越知町出身の中内理・一等飛行兵曹らの艦上攻撃機流星改」である。
米軍戦闘詳報等を精査してみると、午後1時30分、空母「ヨークタウン」(ミッドウェー海戦で撃沈された後に就役した2代目:中西注)の防空戦闘機群によって最後に撃墜された特攻機は、百里原基地から飛び立った高知県天坪村(現土佐山田町繁藤)出身の弘光正治・一等飛行兵曹が操縦する「彗星」艦爆の8番機であった。」
と書かれている。
私はこれを読むまで「流星」が特攻機として実戦投入されていたことを知らなかった。
弘光さんの弟さんの奥さんの話では、終戦の日に事故で亡くなったと聞いていたそうである。
以上は命令による最後の特攻である。
8月15日の玉音放送の後で、宇垣纒中将が11機の彗星艦爆を引き連れて大分基地から出撃、3機は故障で不時着したが残る8機は沖縄に突入して全機撃墜されたか自爆した。
宇垣纒中将は命令も無しに勝手に特攻出撃したのである。
終戦の放送後、多くの将校が自決した事実がある。また、勝手に飛行機で出撃し、周辺海域で自爆したとの記録もある。
しかし、私は宇垣中将は一人で責任を取るべきであったと思う。
大西滝治郎中将のように割腹自決をするか、拳銃自決をすればよかった。
以前、この事を書いた「最後の特攻」(蝦名賢造著)を読み、この攻撃隊の隊長であった中津留達雄大尉のご遺族が「死ぬなら一人で死ねばよい、なんでうちの達雄たちまで道連れにしたのか」と書かれていたのが印象に残っている。