フィリピン視察・その4

い13日(木)、目覚めが早く暗いうちはブログを書き 、夜明けを待ってホテルの周りを散歩した。
このホテルは灯台ホテルという名称であるが、その灯台は海岸よりの隣にしっかり残っていた。
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前にはコンテナヤード、その右手がスービック湾の出入口であろう。その右手に韓国企業の韓進(ハンジン)の工場と専用岸壁があり、数隻の船が接岸していた。
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昨日の説明では、ハンジンは米海軍基地がある当時からこの地域の土地を買っていたそうだ。米軍撤退後に工場を建設したという。
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15分程散歩した、フィリピン海軍のTシャッツを来た兵隊が2人ジョギングしており、家族連れらしき3人組も体操をしていた、安全な地域だ。
前回書き漏らしたが、到着当日バスでコンテナ埠頭や居住地を回った時に、現地ガイドの説明では、このスービック経済特区の一角に退職者の住宅地があった、日本人も多く住んでいるそうだ。ここはゲートがあって一般のフィリピン人が入れないので、犯罪が非常に少なく、女性が商店街を夜1人で歩いていても安全だという。
午前8時10分、貸切バスでマニラへ向かう。今日は東京へ戻る人が3人おり、トイレ休憩も1カ所だけだ。
クラーク空港がよく見えたので写真を撮った。
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ここは1991年にピナツボ火山が噴火した後、米空軍が撤退するまで基地であった。ピナツボ火山はここから北へ40キロほどだろう、噴火によって火山灰が積もり、基地の機能を失ったので米軍が放棄した。
現在は北空港と南空港の道路標識が出ていたので2カ所の空港として機能しているのだろう。
スービックからマニラへ帰る際には空港がよく見えたので写真を撮った。
空港の端にはフィリピン空軍の戦闘機であろうF-5が見えていた。相当に古い戦闘機である。
また、セスナ機が多数駐機している所はセスナ機の専用滑走路であろう、飛行機学校もあるのかもしれない。
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ここは大東亜戦争当時は海軍航空隊の飛行場が何カ所かあり、一帯をクラーク基地と呼んでいた。昭和19年10月 に神風特別攻撃隊がここで編成され、同月25日に関行男大尉率いる敷島隊がクラーク基地の一つのマバラカット飛行場から飛び立ち、レイテ湾の米海軍艦艇に突入し、護衛空母撃沈などの戦果を上げ、最初の神風特攻隊と認定された。
昨年2月に慰霊巡拝で訪問した時には、高速道路そばの特攻兵士像のある公園に参拝した。
現在は一帯がクラーク経済特区として多くの外国企業が進出しており、昨日訪問した日本電産も工場立地をしているが、空港があるので部品の供給がスムーズにいくと副社長が話していた。
スービックからクラークを経てマニラに向かう高速道路の周辺では、現地の人が水牛を使ってのんびりと水田を耕作していた。
本来、水田や畑作地帯が多く、豊かな地域であろう。
平成16年(2004年)に来た時には、まだピナツボ火山の噴火で降り積もった火山灰の影響が残っていたが、今回はその影響は全く見られなかった。
また、帰りの飛行機からここら辺り一帯を眺望出来たが相当に広い平野部だ。
農業改革が進めばもっと豊かになるのかなと考えた。
マニラ市街も何カ所かバラック建ての家屋がある。相変わらず貧富の差はあるのだろうが、JICAマニラの安藤所長の話では、フィリピン経済は着実に発展を遂げているようだ。
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今回訪問した進出企業のホンダでも日本電産でもインフラ整備が課題だとの話を聞いた。
マニラ市内の交通渋滞はタイのバンコクほどではないが相当なものだ、自家用車が急激に増えたのであろう。
日本より電気料金が高い電力事情は、原子力発電所を今後作れる可能性は無いようだから、火力発電所を作るしかないのかなと思った。
国に経済力が無いようなのでODAでやるしかないのか。
フィリピン人は、日本でも介護分野の仕事に向いているとの評価が高いし、船員も多い。日本の船会社が出資協力して船員養成学校を作っており、その卒業生は貨物船などの乗組員として日本の船会社に雇われているそうだ。また、客船の船員は船長や航海士を除いてフィリピン人が相当に多いと聞いている。
彼らが稼ぐ外資がフィリピンの家族に送られているのだろう。
マニラのショッピングセンターも視察したが食料品、衣類など、日本人の平均収入の10分の1ほどしかないフィリピン人にとっては高いと思うのだが、人出は多い。
最終日に昼飯を食べたショッピングセンター内にあるレストランは(下の写真)、現地ガイドのコニーさんの話では、200種類の料理があるバイキング形式で有名な店だそうだが、1人2千円以上だが予約を入れなければ座れないとのことであった。確かに日本食もあり、ここが一番美味しかった。
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フィリピンへは3回目の訪問だったが、相変わらず治安は悪そうだが、着実に発展していることを実感したし、親日的な国民なのでより一層交流を深めることを期待したいと思った。
14日(金)午前6時37分ホテル発、7時05マニラ空港着、8時55分マニラ空港発予定のフィリピン航空機は予定より早く40分発、51分離陸、今日は天気が良くルソン島縦断飛行で景色がよく見えた。この地にはまだたくさんの日本兵のご遺骨が眠っていることを思いながらずっと山並みを眺めていた。
約4時間の飛行時間で日本時間(プラス1時間)13時37分羽田空港に着いた。
快適な空の旅であった。