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父の最後を看取りました

思い
(9日追記)
4日(日)午前11時31分、父中西兼行が亡くなりました。
大正12年12月3日生まれの満91歳10ヶ月、天寿を全うしました。
7年前に脳出血を、そして今年4月に入居していた老人アパートで転倒して右股関節骨折、はた県民病院で人工関節への置換手術を受け、筒井病院でリハビリ中の5月に脳梗塞を発症して再び県民病院で治療、筒井病院、ぎんなん荘で療養していたが、脳梗塞と誤嚥性肺炎の為に亡くなった。
容態が悪化した10月1日午前2時に、私は県外出張中の為女房が医師から呼ばれ、血圧が60-40危篤だ、但しこういう状態で2日もった人もいますと言われていた。
東京と千葉に住む弟達が帰り着くまで持てばと思っていたら、何とそれから4日間も頑張って生きた。丈夫な心臓だ。
5年前に亡くなった母も、今回の父もガンとは無縁であった。これも最近では珍しいだろう。
闘病中に6人の孫と2人の曾孫が見舞いに来た時には意識があり、嬉しそうに笑顔が見えた。
亡くなる10日ほど前には、市外に住む父の兄弟など6人が見舞いに訪れた。この時だけ意識が戻り、弟達が「また来るね」と声をかけたら泣き出した。
家族と別れができてよかった。
父は宿毛市小筑紫町大海という小さな漁村で生まれ育った。
9人兄弟の長男という立場で、現金収入の少ない漁業では旧制中学へ進むことは経済的にかなわず、8歳下の次男の叔父が中央大学へ進むのを一家で支えたという。
その叔父は一族の期待に応えて司法試験に合格し、検事を経て名古屋市で弁護士をやっている。
父は我々に対して、「旧制中学に行って思う存分勉強がしたかった。日本海軍の経理学校の5ヶ月間が思う存分勉強が出来て一番充実していた」と何度も話し、「お前達は大学へ行って思う存分勉強せよ、それが親の最後の務めだ。」と常に語っていた。
私の女房が初対面の父を評して「学校の校長先生みたいね、あなたとは正反対ね」と言った。
父も旧制中学、高校に進み教育者になりたかったのではないかと思っていたが、本人は戦時中ゆえ戦闘機パイロットになりたかったと言っていた。
終戦は中国の上海海軍航空隊の主計兵として迎え、戦闘は経験していないが、爆弾を抱いて戦車に飛び込む特攻隊に志願して訓練をしていたそうだ。
父は最後まで大東亜戦争で戦死した故郷の友人や、海軍の仲間達に対する尊崇の念を忘れず、それが現在の私の政治信条の基本になっています。
働きに働いて、真面目に人生を全うした大正生まれであった。
私も父の人生に少しでも近づきたいと思いながら生きている。