大東亜戦争、日本兵の戦い

山本七平氏の「私の中の日本軍」(文春文庫)を読み返している。

また昨日、NHKのドキュメンタリー番組の「ガダルカナル島の戦い」も見た。

日本兵は広大な中国大陸を、そしてマレー半島ビルマからインドに向かうインパール攻略作戦を、フィリピン、ニューギニアなどの戦いを、全て二本の足で歩いて戦ったのである。

しかも、馬と大砲を一緒に運んだのである。

毎日毎日一日40キロから60キロ歩くことの凄まじさを山本七平氏はこう書いている。

「今ではもう想像もできないであろうが、日本軍というのは、そのほぼ全員が二本の足で歩いていたのである。もちろん例外はある。しかし例外はあくまで例外であって、兵隊は文字通りの「歩兵」であった。」

「人間は熟睡したまま歩ける」といっても信じる人はいないであろうが、夢遊病者は熟睡したまま立派に歩いている。そして疲労の極の強行軍では、いわば人工的に一時的な夢遊病状態を現出する事は、少しも珍しくない。」

「確かに、日本軍は、人類史上最大にして最後の『歩兵集団』であったろう。歩くということを基礎にした軍隊が、東アジアの全地域に展開するということ自体が、いわば狂気の沙汰である。従って歩かされている全員が、心身ともに一種の病的な状態になっているのは当然である。」

「苦痛はこれだけでは済まなかった。厳密な意味での健康体のものは1人もいないと言って過言では無い。全員を多かれ少なかれ苦しめたのは『靴ずれ』であり、軍隊で言えば『靴傷』である。」

「普通の生活をしている人が突然こういう状態につき落とされれば、発狂しても不思議では無い。しかし実際はそうならない。これは強制収容所と同じであって、人間には、驚くべき適応力がある。しかし適応しているという事は、異常になっていることなのであって・・・」

山本氏は引用することが苦痛になるほど具体的に書いている。

その上十分な食料がないので兵隊は下痢に悩まされた。

ガダルカナル島は日本から5千数百キロ離れている。ハワイからオーストラリア東部海岸の間の補給を分断するために考えられた米豪分断作戦を行うためにガダルカナル島を必要としたのである。

補給線を考慮しないでこういう作戦を考えついた大本営参謀の頭を疑う。

ガダルカナル島へは先に日本軍が飛行場を作り、それを米軍に奪還された。そこで、再度奪還作戦を行ったのである。

日本軍はツルハシ、スコップ、モッコなど人力で滑走路を作ったが、米軍はブルドーザー等と鉄板であっという間に滑走路を完成させた。

戦い自体は日米どちらが勝ってもおかしくない互角の勝負であったが、この工業力の差は大き過ぎた。

よく昭和20年まで戦えたものだと思う。

このガダルカナル島の戦いも、島を占領後の補給作戦も極めて杜撰で、遠くフィリピンから食料、武器弾薬を輸送船で送ったが、制空権を取ることが出来ず、ほとんどの輸送船を途中で米軍の飛行機に撃沈されたのである。

ガダルカナル島は後に「餓島」と呼ばれ、将兵の6割以上が戦死ではなく餓死したと言われている。

そして、フィリピン・ルソン島の戦いも8割が餓死であると言われている。

また、ニューギニアの戦いも同様であった。

昭和17年7月から18年1月まで戦われた、ニューギニア東部のポートモレスビー攻略作戦は、高知県で編成された大本営直轄部隊である歩兵第144連隊を中心として、広島県福山市の歩兵第41連隊、大阪編成の独立工兵第15連隊からなる南海支隊が戦った。

そして、輸送を手伝った台湾人の軍属、高砂義勇隊も忘れてはならない存在だ。

この戦いは第144連隊だけで約3,330名、合計1万名以上の戦死者を出した。

島北東部のゴナ、バサブア海岸から全く道のないジャングルを、途中標高3千メートルのオーエンスタンレー山脈を越えてポートモレスビーが見える場所まで辿り着いたが、ガダルカナル島戦に集中するために撤退命令を受けて北東部海岸へ戻った。そして、食料、武器弾薬の補給もない中で北東部海岸のブナ、ギルワでほぼ全滅した。

この戦いで負傷しながらも、かろうじて生き延びた第144連隊の兵長であった西村幸吉さんは、戦後60歳を過ぎてから戦友との約束を果たすため、仕事も家庭も投げ打ってご遺骨の収容の為ニューギニアで26年間を過ごした。

私は西村幸吉さんが存命中に、南海支隊戦友遺族会の特別会員として、西村さんと共に二度東部ニューギニアを慰霊のために訪れ、戦いの様子を詳しく聞いた。

オーエンスタンレー山脈のココダへ向かう途中で断崖にぶつかり、馬も自転車も捨て、それからは山砲も人力で運んだと聞いた。

この戦いは南海支隊の堀井支隊長が、「兵力5千の南海支隊が峻険なオーエンスタンレー山脈を越えるには、3万8千からの物資輸送人員が新たに必要であると冷静に試算分析し、作戦の非現実性を強く主張したにもかかわらず、東京の大本営参謀である辻政信参謀がやって来て、「モレスビー攻略は陛下の御意思である」とウソの発言をして、勝手に押し付けた作戦である。

しかも、この辻政信は責任もとらずに戦争を生きながらえ、戦後は国会議員にまでなった。いかに国民に情報を知らされていないかの証しである。

こういう軍人が日本を破滅に導いたのである。

この戦いについてはこのブログに何度か書いたのでこれ以上書かない、

しかし、上記の地域での戦いに加えて、大本営は食料・武器弾薬などの補給を全く考えずに南方の島々に守備隊を送った。見殺しにしたとしか思えない。

日本軍がこの補給を考慮せず、食料は全て現地調達とした事について、山本七平氏は

「後方支援補給の軽視、同時にそれに従事する者への蔑視である。『輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち』とか、『輜重輸卒が兵隊ならば、電信柱に花がさく』といった嘲歌が平然と口にされた日露戦争時代から太平洋戦争が終わるまで、一貫して、日本の軍人には補給という概念が皆無だったとしか思えない。」と書いている。

私は国会議員になってから、防衛省の官僚にこの考え方があるのではないかと強く危惧し、何度もこの点を指摘している。

彼らは、限られた予算の中で正面装備を優先するので補給まで手が回らないと言い訳する。

自衛隊が遠くの海外へ出て行って、単独で戦うことは想定外であり、そんな事態を起こしてはならないと考えている。

しかし、日本が国際貢献を求められて、現実に自衛隊は海外へ派遣されている。

海外へ派遣された自衛隊に対する補給以前に、国内に配置されている自衛隊にも十分な食料、武器弾薬があるかどうか疑わしい。

補給を考えないで、日本から遥か彼方の島々へ日本軍を派遣し、戦線を拡大した事に対して、大東亜戦争後の最中から、あるいは捕虜収容所で、兵士から「大本営の気違いども」「バカ参謀」と言われていたと山本七平氏は書いているが、その通りだ。

この教訓を深く心に刻むべきだと思う。