29日(木) 午前9時20分、高雄市の港湾管理を行う台湾港務会社高雄支会社を訪問して説明を受けた。
高雄市の人口は約277万人、台湾第2の都市だ。
高雄港は台湾のコンテナ貨物取扱量の7割をまかなう。
2018年の速報値は、コンテナ取扱量が約1千万TEUで世界で15位程度に落ちた。その原因は中共との貿易量の減少だ。
しかし、東京(511万TEU)、横浜(304万TEU)、神戸(294万TEU)を合わせたほどの取扱量だ。
その後、高雄港を遊覧船に乗って海から視察、これはよかった。
高雄港はバナナなど果物と砂糖の輸出で栄えた港で、下の写真の建物には「バナナ港」と書いてある。
台湾海軍の駆逐艦もあった、修理中だろうがターターミサイルを積んでおり相当に古い型だ。
こちらは台湾の海上保安庁の巡視船、
下の写真は遊覧船のターミナル、
その後、午後1時55分高雄空港発の飛行機(ボンバルディア)で金門島へ移動、約1時間の飛行、念願であった。
下の写真は、赤矢印が金門島の位置図、次の写真の右下が大金門島、その左隣りが小金門島、4枚目が記念館の写真。
金門島は大陸のすぐ近く、廈門(アモイ)の隣だ。
かねてから訪れてみたいと思っていた。
金門島は完全に観光地になっていた。この島は元々中国大陸の内陸部の人々が移り住んだそうだ。現在の人口は戸籍上は12万人、実際は6万人との説明を受けた。
国立金門大学もあり、構内を車で通ったが広くて立派だ。
現在の住民は、1952年から国民党の兵隊が伝えたコウリャン酒作りに従事している人が多いとの説明を受けた。
この島は蒋介石が台湾へ逃げた後、中共軍が上陸して国民党軍と戦った。
その際、日本陸軍の根本博元陸軍中将が指揮をして中共軍を撃退した。
なお、根本博氏は中国名で参加していた。氏の活躍を台湾は秘密にしていたが、平成21年に公表した。その活躍の様子は、作家の門田隆将氏が「この命義に捧ぐ」という本で紹介している、是非読んで頂きたい。
初めに訪れたのが金門島の小型船舶修理用の地下水路、よう山坑道を見学。
入り口には米国製のM41戦車、上陸用舟艇、40ミリボフォース対空機関砲などが展示してある。
ここら辺は花崗岩で出来ており、ダイナマイトでくり抜いて水路を造った。
水門の近くは下の写真のようにチヌが泳いでいた。
次に行ったのが大陸の厦門(アモイ)が見える高台にある、金門島の戦いの記念館の一つである筥光樓(きょこうろう)。
1958年の金門島の戦い(八二三砲戦)の説明、
上の写真は大陸の方をバックに青山繁晴議員と記念撮影、
戦いの様子が展示してあったが根本博元陸軍中将の話は無かった。根本氏の活躍がきちんと紹介されていないという事も聞いていた。
しかし、根本博元陸軍中将の活躍は、金門県の陳朝金秘書長主催の夕食会の場で、陳秘書長が歓迎の挨拶の中で、白団の話と一緒に話してくれた。(下の写真)
次に訪れたのが金合利綱刀廠、1958年の金門島の戦いで、44日間で打ち込まれた砲弾(105ミリ弾が多かった)約50万発(47万発)のうち、不発弾を加工して包丁を作る工場だ。
呉増棟という方が始めたそうだ。
今でも宅地造成工事の際には不発弾が出るので材料には不自由しないそうだ。
我々の目の前で、短時間で包丁を鍛造して造ってくれ、外交部から28会の名前を刻印してプレゼントされた。
包丁以外にも各種のナイフが展示してあった。