ブックチャレンジ最終日

ブックチャレンジ7日目、最終日はユージン・B・スレッジ著「ペリリュー・沖縄戦記」です。

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パラオ諸島ペリリュー島の戦い(昭和19年、1944年9月15日〜11月27日)を、実際に従軍して海兵隊の一員として戦った米国軍人の目から見た戦記です。
島を守った日本軍は、第14師団・水戸歩兵第2連隊(中川州男大佐指揮)、歩兵第15連隊第3大隊など約11,000 人、
戦死 10,695人 捕虜(ほとんどが軍属)202 人、34名の兵士は昭和22年4月に投降した。
米軍は海兵隊、海軍、陸軍合わせて約5万人の兵力で攻めた。
ガダルカナル、マキン、タラワ、グァム、サイパン島嶼戦で連戦連勝を続けていた米国海兵隊であった。
3〜4日で落とすと豪語した米国海兵隊第1海兵師団のリュバータス師団長は、最初の一週間で死傷者が3946人にのぼった。1個連隊が戦闘能力を失い、残る2個連隊の戦力も激減して、9月21日、第一海兵連隊は兵員も約3,000名の連隊の定員の内1,749名が死傷しており全滅判定を受けた。
第1海兵連隊はアメリカ軍史上最も激しい損害を受けた連隊となっていた。
第1海兵師団も陸軍第82師団に交代させられた。
最終的な損害は総計6,526人(戦死者1,252人、負傷者5,274人)

【追記】

米軍全体の戦傷者は、戦死 2,336人、戦傷 8,450人、合計 10,786人、他に2千人以上の戦病者(戦争神経症)が出たとの情報がある。
リュバータス師団長は解任され、数ヶ月後に米国で亡くなった。
作戦の総指揮を取った第3水陸両用軍団長のロイ・S・ガイガー少将は、ペリリュー島の戦いこそ太平洋戦争全体の中で最大の激戦だったと再三再四述べている。
また、ニミッツ元帥は「太平洋海戦史」の中で「難攻不落の激戦場と最初に断定しているのは、ペリリュー島攻防戦だけである。」
この戦いは、今でも米国海兵隊にとって屈辱の歴史と認識されているそうである。
私は、このペリリュー島の戦い、硫黄島、沖縄の戦いが、戦後、米国が日本国憲法第9条を作った要因だと考えております。
「最後の一兵まで戦う日本民族に、二度と再び軍隊を持たせてはならない」米国の軍人も政治家もそう考えたと思っております。
ブックチャレンジのバトンは、私の友人であり、保守の理論家である、亜細亜大学法学部講師の菅谷幸浩さんにお願いしております。