75回目の敗戦記念日

昨日は75回目の敗戦記念日であった。

いつもは、終戦間近に陸軍の一部将校が(椎崎中佐、畑中少佐など)起こした徹底抗戦を求めるクーデター(映画「日本でいちばん長い日」)、特攻産みの親と言われる大西瀧治郎海軍中将、阿南惟幾陸軍大臣の自決を思いながら、高知県護国神社の慰霊祭に参列し、夜は地元大海地区の盆踊りに参加していた。

今年は新型コロナウィルスの影響で両方の行事とも中止となり、自宅でテレビ録画を見た、

2017年12月にNHKBS1スペシャルで放送された「戦慄の記録 インパール」である。

インパール作戦は1944年(昭和19年)3月日本陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。

8万6千人の兵力を投入して、1万2千名が生き残ったとの記録もあるが、この番組では戦死3万人、戦傷者4万人と記録していた。

インパール作戦は、当時の日本陸軍第15軍司令官と18師団の牟田口廉也師団長(その後15軍司令官となる)は当初反対であったが、大本営の命令で実施された。

この作戦は、補給が難しい事と5月から雨季になるという天然の障害があり、作戦後半には、佐藤幸徳中将率いる第31師団(5月時点で兵員1万6600名)は、インパールの北にあるコヒマを占領していたが、インパール作戦中に第15軍が糧秣を供給しないことに抗議して独断で撤退した。

また、第33師団長柳田元三陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長山内正文陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。

日本陸軍始まって以来の不祥事であった。

これらの責任者は大本営参謀とともに、その上司である当時の東條英機首相である。

この馬鹿者指導者達は、前線で戦う司令官の意見を全く無視して無謀な作戦を進める事を強要した。

牟田口廉也は1966年(昭和41年)8月に77歳で亡くなるまで、インパール作戦の失敗を認めようとしなかったが、東條英機大本営参謀も同罪である。

この番組は以前にも見ていたし、インパール作戦の本は何冊も読んでいた。

今回改めて心に残った証言は、牟田口司令官に仕えた第15軍司令部の斎藤博圀(ひろくに)少尉の証言である。斎藤さんはインパール作戦で病気で動けなくなり、捕虜となって生き延びた。

戦後は家族にも戦争の話はしなかったそうであるが、NHKが斎藤さんの手記を見つけて取材すると応じてくれた。

「参謀達が『5千人殺せば陣地が取れる』という話をしており、最初は敵兵を5千人殺すのかと思っていたら、見方の兵隊が5千人死ねば、という意味である事を知り、兵隊の事をそんなふうに考えているのかと愕然とした。そういう話を聞くと他では話せない。」と当時90何歳の斎藤さんは泣きながら話していた。

私はこの参謀達と同じような話を、今から50年前の大学生時代に聞いた。

当時私は日本学生同盟・全日本学生国防会議の議長で、年に数回「国防講座」という勉強会を開催しており、その講師に元日本陸軍の高級参謀を呼んだ。

話された方の名は出さないが、元日本陸軍の中国大陸に派遣されていた方面軍の参謀である。

この方は当時、戦没者のご遺族のお世話をする団体で支援活動をされていた。

「ある作戦が失敗して、2千人の兵士が死んだとする、兵は補充すれば良い。」と平然と話していた。

この人は兵士に家族がいる事を何とも思わないのかと、不思議な感じがしたが、この人だけでなく、当時の日本陸軍の指導者達はそう考える軍人が多かったのであろう。

今の国の官僚達の中に、似たような考え方をする人達がいる事を危惧する。