張作霖爆殺事件再考

*[政治]*1307597519*張作霖爆殺事件再考
張作霖は昭和の初めの一時期、中国の征服者(北京政府の大元帥)となったが、すぐに北京を追われ、昭和3年(1928年)6月4日未明、満州に帰り着いた途端に爆殺された。
満州馬賊から大元帥に上り詰めたその一生は、作家の浅田次郎氏が書いた大作「中原の虹」がおもしろい。
張作霖爆殺事件は長い間、当時の日本陸軍関東軍高級参謀・河本大作大佐の指揮の下で行われた犯行とされてきた。
河本大作氏の一生は相良俊輔氏の書いた「赤い夕日の満州野が原に」が有名である。
私も二十代の頃に感動しながら読んだ、忘れられない本である。
この本では、河本大佐指揮の下で関東軍将校の数人が、線路脇に爆弾を仕掛け張作霖の乗った列車通過と同時にスイッチを押して爆破したことになっており、それを陸軍も田中首相も認めた。それが戦後の通説となっていた。
東京裁判では昭和3年の張作霖爆殺事件から昭和20年の終戦までが、日本のアジア侵略戦争として裁かれている。この事件が日本陸軍の犯行でないとしたら、東京裁判の前提が崩れることになる。
この事件については2005年に出版されたユン・チアン著「マオ――誰も知らなかった毛沢東」でソ連の諜報機関が実行したとの記述があり、俄然注目を浴びたのだが、私も読んだがあまりに簡単に書いているので信じるほどのことではないと思っていた。
ところが、最近出版された、加藤康男著「謎解き『張作霖爆殺事件』」(PHP新書)を読んで考え方が変わった。
この本では「河本大作犯行説」以外に、「コミンテルン説」、「張学良説」を紹介している。
張学良は張作霖の息子で当時27歳である。
加藤康男氏も誰が犯人かは特定できていないが、私が注目したのは、当時の奉天総領事林久治郎が命じて事件調査に当たらせた内田五郎領事が昭和3年(1928年)6月21日付けで作成し、本省に上げられた最終報告書である。
「昭和三年六月四日満鉄京奉交叉地点列車爆破事件調査報告書」と題されたこの文書では、手書きの現場橋脚の図面と共に、「爆薬は橋上地下又は地面に装置したものとは思はれず、又側面又は橋上より投擲したるものとも認め得ず、結局爆薬は第八〇号展望車後方部ないし食堂車全部附近の車内上部か又は、(ロ)橋脚鉄桁と石崖との間の空隙箇所に装置せるものと認められたり。」と書かれている。
そして、何枚かの爆破現場の写真もレールと列車の車輪は残っておりそれを裏付けている、線路脇の地上に仕掛けた爆薬で破壊された状況ではない。内田報告書の通り、上部からの爆発で破壊されたことを物語っている。
また、イギリス公文書館から発見された、奉天総領事館が作成したと思われる現場見取り図もそのことを裏付けている。
加藤氏は「おそらく、報告書は田中首相外相の手に渡ったものの、何か見えぬ力で葬り去られたに違いない。そうでなければその後の宮中を含めた内閣、陸軍の処置は誰にも納得されないだろう。それだけ迫真の報告書である。」と書いている。
この事件については、イギリスの情報機関は早くからソ連の犯行の可能性が強いとの見方をしているということは何度か読んだことがあった。
加藤氏もこの本のなかで、いくつかのイギリス情報機関が本国に送った文書を紹介しているが、これらは「今回、高度な国家機密を伴うこうした情報が入手できたのは、イギリス公文書館が2007年にかなりの情報開示をした結果である。」と書いている。
ソ連コミンテルン犯行説についてはまだ確定的な証拠文書は公開されていない。
しかし、今後それを証明する文書が出てくる可能性がある。
日本と中国、ソ連との当時の関係については、スターリン蒋介石によって日本が対中国戦争に巻き込まれたという見方があり、ゾルゲ事件もその一つである。
それは、当時の日本にとって最大の敵国であったソ連スターリンが、対独戦争に集中するために仕掛けたものであり、スターリンは対独戦に勝利することができ、米英を含めた連合国の思い通りとなったのである。