東北被災地視察その1

7月13日(水)、午前10時45分 西森潮三県議と2人で伊丹空港経由で仙台空港に着いた。
西森県議が衆議院議員福井照さんと被災地の視察を行なう事を計画していて、私もそれに加えてもらった。
仙台空港で県内の建設会社で唯一仙台市に支店を持つ、大旺新洋株式会社の佐藤部長の出迎えを受けて、早速仙台市の隣の多賀城市にある陸上自衛隊第22 連隊の国友昭連隊長を訪ねる。

(写真説明、上から)
1、陸上自衛隊第22普通科連隊入口で国友連隊長を真ん中に左は西森県議、入口にあるのは住民から贈られた寄せ書きなどである。
2、女川町の状況、震災から4ヶ月経ってもこの状況である。左高台にある建物は避難所となった建物でよくテレビに写る。
3、南三陸町の状況、結構高いところにある建物も全滅である。
4、ここはがれきも撤去されていない、向こうに見える鉄骨だけの建物が総合防災庁舎。
5、庁舎前には祭壇が設けられていた。
基地の近くの高速道路出口が大渋滞で20分ほど遅れて着いた。被災者の高速道路料金が無料になったことは良いが、その証明書をいちいち確認しているので大渋滞が続いているとのこと、国交省の工夫が急がれる。
国友連隊長は土佐佐賀町の出身で中村高校から防衛大学に進んだ。多賀城駐屯地の司令も兼ねている。
3月11日の震災当日は近くの射撃場で射撃訓練を終えた後で、車で基地に帰る途中であった。大地震を感じて直ぐに部隊の出動命令を出して基地に戻った。
その後、基地にも川を遡上した津波が押し寄せ1メートルほど浸かったため何台かの車輌が使用不能となった。また、基地へ戻る途中に津波に巻き込まれて流された中隊長と2名の部下は幸いにも無事であった。それは週刊新潮の記事にもなっていた。
国友連隊長の話では、基地の防災行政無線は電源が水没して使えず、自衛隊の無線も暫らく使用不能で、その上、輻輳防止措置を施した業務用の携帯電話も暫らくして使えなくなり、全く情報の入らない状態があったとの話しである。
私が自衛隊独自の衛星通信回線の必要性を話すとうなずいておられた。
米軍は独自の通信回線はもちろん、3種類のインターネット回線も持っており、階級によってアクセスできる回線が異なるという。
この話をすると、国友連隊長は「国内の周波数は未だに米国の占領状態にあり、日本の使える周波数帯が制約されている。」と言われた。
また、震災後は自衛隊仙台市職員とのスピード感の違いを感じたので、仙台市長、自衛隊OBの危機管理官との三人で週二回の打合せをやったことがスムーズな活動に繋がったと話していた。
また、2か月間もレトルト食品を食べているとビタミン不足になることが分かったと話しておられたが、これは自衛隊全体の問題であったようで対策が必要である。
昼食を食べながら約1時間お話を聞かせて頂いた。
石巻市の状況
石巻市もひどい状況であるが復旧が進んでいる。テレビによく出る雄勝中学校で降りて視察した。
三階建ての校舎はすべて津波にやられていた。
また、二階建ての雄勝公民館の屋上には大型バスが乗っかったままである。このバスの同型車は十数台が辺り一帯に散乱していた。
女川町の状況
ここはひどい、石巻から山を越えて女川に入ると景色が一変していた。
まさかここまで津波は来ないだろうと思える家までやられている、海抜20数メートルはあるであろう。
写真やテレビで見ていたけれど、それらでは空間の距離感がつかめない。
現場に立ち、呆然として言葉もでない。
道路は片付けられているが、がれきはまだ残っている。海岸の近くは沈下しているため波が道路を洗っている。
海岸近くで横倒しになっている3階建てのビルは地下の基礎杭がそのまま抜けており、一昨日NHKで放映していた、液状化と大津波の相乗効果によるものだといわれている。
南三陸町
ここはまだ復旧作業が進んでいない。
鉄筋のビル数棟を残して町に建物がない、見渡す限りがれきの山。
宿毛市の市街地の2〜3倍の広さがある地域だが、全滅である。
町の総合防災庁舎に行く、ここで最後まで若い女性職員が避難を呼びかける放送を続けて、数十名の職員と一緒に津波にのまれて亡くなった。
骨組みだけになった3階建て庁舎の正面には祭壇が設けられ、花や線香が供えられていた。私たちも手を合わせて冥福をお祈りした。
テレビには出ないが、石巻から南三陸町へ来るまでの間に、たぶん数十軒から百軒の家があったであろう海岸沿いの集落がいくつかあった。
建物の基礎を残して何にもない、がれきも残ってない。
集落の端っこの山沿いにはいくつかがれきが残っている。
あまりに山と海岸の間が狭くて津波に残らず海に引き込まれたのではないかと思った。
私の生まれ故郷である大海地区や隣地区とほぼ同じような地形である。
南海大震災で私の故郷もこうなるのかと思ったら戦慄が走った。