東北被災地視察その3

東北被災地視察その3
14日(木)は朝6時ホテル発、今日は福井代議士が国会質問準備のために急遽東京へ帰ることになったために、地方整備局の出先事務所をいくつか回ることになっていたが取り止めとなり、西森県議と二人で回ることになった。
仙台から東北自動車道を北上し盛岡インターで降り、国道45号線を東に走り、岩手県北部海岸の小本地区に入った。ここは久慈市の少し南に位置する。
ここは、防波堤が比較的効果を発揮した場所で建物の被害は少なかったが、浜には大きなテトラポットがたくさん壊れて転がっていた。大旺新洋の社員の話では重量8トンのテトラポットだそうだ。積み木をばら撒いたように転がっている。
次に向かった宮古市田老町の状況
この町は頑丈な沖防波堤、二重の海岸堤防、ことごとく壊され堤防の内側にある家屋もほぼ全滅状態である。
地震学者が、ここの津波防波堤は大丈夫だろうといっていた地区である。
視察している時にちょうど岩手県の土木部のパトロールカーが通りかかり、県職員から話を聞くことができた。
それによると、この地区は明治29年の三陸津波で全滅した。戦後堤防の改修工事が進むと、海岸へ、海岸へと家が建ってきたために海岸堤防を追加したのだという。
高さ6〜7メートル、の堤防が二重にあったが何カ所も破壊され、外側の堤防は厚さ1.2メートルある所で折れて消失していた。
大旺新洋の社員が、この堤防は鉄筋がない、手抜き工事だろうかと言っていたが詳細は不明、そこから流れこんだ津波で町は壊滅状態である。
海岸よりの堤防の内側にある鉄筋コンクリート製のホテルは一つだけポツンと残っていたが4階まで破壊されていた。
宮古市の状況
ここも相当やられている。
山田町の状況
私の親友で米国に住んでいる上林の故郷である。風光明媚な町である。
入口が狭く地図で見ても湖のような地形だ。その港に津波が押し寄せ町は壊滅状態である。上林の弟さんと、姉さんは高台に住んでいて家も無事であった。高台には比較的多くの家が残っていた。
あらためて、津波被害を受ける海岸線の近くからは引っ越すべきだと思った。
(写真説明)私の後ろの白いビルは役場と病院か?街は壊滅状態である。

大槌町の状況
町長さんが津波にのまれて亡くなった町である。
3階建ての町役場の時計は長針が折れていたが午後3時十数分を指して止まっていた。
この町も壊滅、多くの町職員も犠牲になっている。
釜石市の状況
ここは復旧が他の地区より遅れており、悪臭もする。
昨日東北地方整備局で説明を受けた時、川嶋企画部長が市町村の財政状況によって復旧作業に差があると言っていたが、市の財政が厳しいせいなのであろうか、道路は綺麗になっているがガレキの片付けが遅れていた。
次は大船渡市に向かうが、途中の橋が落ちていて迂回した、そのためにこの付近で仕事をしている大旺新洋?の浚渫船の作業を見ることができなかった。
大旺新洋の社員さんは何度か車で被災地を視察している、それは営業のためであろう。
そして、この近くでは同社の浚渫船が被災地の海底から流出物を撤去する仕事をしており、今回の案内はその一つでもあったそうだ。
大船渡市の状況
ここも復旧が遅れているし、地盤沈下のため、岸壁は海水で洗われている。また、通行止めになっている場所がある。
(写真説明)
大船渡市はまるで爆撃を受けたようだ、両石地区は大槌町大船渡の間にある小さな漁村、壊滅である。二階建ての家は屋根まで津波が来ている15〜20メートルの津波であろう。