パプアニューギニア慰霊の旅 その1

7月16日(土)同僚県議の大石宗君、ふぁーまー土居君の三人で日本陸軍南海支隊戦友遺族会パプアニューギニア慰霊巡拝団に加えてもらい、成田空港に午後5時に着いた。
集合時間は午後7時なので有料待合所で休んでいると西村幸吉氏、幸子さんの親子が入ってきた。
大石県議は西村氏と何度か会っているので紹介してもらって話しをした。

(写真は西村氏を囲んで右が中西、左上が大石県議)
西村幸吉氏は私のブログで何度か紹介した「ココダの約束」という本の主人公で現在91歳、今回の参加者の中で唯一の戦友である。

また、高知新聞で福田仁記者が今年の1月13日から6月28日まで5部に分けて連載した「祖父達の戦争」の主人公である。
その連載記事で詳しく紹介されたが、再度記すと、高知市朝倉で編成された歩兵第144連隊は南海支隊の中心部隊であり、西村氏は第2大隊第5中隊第3小隊の一員であり、第3小隊56名はパプアニューギニアの戦いで西村氏以外は全員戦死した。
その戦死者の中に宿毛市出身者が5名いたので調べたが、1名の遺族しかわかっていない。
また、朝倉で編成された連隊は第44連隊、通称鯨部隊が有名であり、私も「ココダの約束」を読み始めた時は第44連隊の間違いかと思っていた。
西村氏は60歳を過ぎた時に仕事も家庭もなげうってパプアニューギニアに渡り、それ以来26年間にわたり同国の北部オロ州の州都ポポンデッタを拠点として亡き戦友のご遺骨の収容を行ってきた。
現在は娘さんの幸子さんと埼玉県加須市に住んでいる。昨年から車椅子の生活となっているが、記憶はしっかりしており、本当にお元気である。

午後7時に全員集合、団長は今回の呼びかけ人である和歌山県高野山に住む辻本喜彦氏である。
辻本氏の父上は南海支隊の独立工兵第15連隊の生き残りで、何度もパプアニューギニアに戦友のご遺骨収容に出向いており、その父上の姿を見て、父の志を継ぎたいと思いたち、今回で6度目のパプアニューギニア行きであるとのこと、パプアニューギニア戦史には非常に詳しい方である。
添乗員は高知市の浜渦卓二氏、現在は土佐パシフィック旅行という会社を経営しており、遺族会の旅でパプアニューギニアを何度も訪れている。
午後9時05分出発予定のニューギニア航空の飛行機は出発が遅れ、午後10時20分に成田空港を飛び立った。
機中泊、6時間30分の飛行で、現地時間17日(日)午前5時40分頃(時差は1時間早い)首都ポートモレスビーのジャクソン空港に着いた。
通関手続きを済ませて出ると、JICAの青年海外協力隊員でありポポンデッタ在住の唯一の日本人である伊藤さんが出迎えてくれていた。
伊藤さんは、ホームページでポポンデッタの情報発信をしてくれており、大石県議がメールで連絡を取ったものである。
伊藤氏に挨拶すると、ポートモレスビーは治安が悪いので、国内線へ移動するときに身の回りのカメラなどに気を付けて下さいと注意を受けた。
国内線の玄関前に数十人の現地人が集まっている、こんな早朝から何事かと思って見たが、とりわけ用事があるようにはみえない。
子供を抱えた女性も多く、ほとんどの住民が裸足だ。
国内線でポートモレスビーからオロ州の州都ポポンデッタまで約40分、パプアニューギニアの東部を南から北へ越えて飛ぶ、雲が多かったが眼下には南海支隊が苦労して超えたオーエンスタンレー山脈が見えた。
ここで、パプアニューギニア(略称PNG)を簡単に紹介する。
大使館のホームページなどによると、ニューギニア島は19世紀後半に西半分(イリアン)をオランダが、東半分の北(ニューギニア)をドイツが、南(パプア)をイギリスが植民地として統治した。
その後、英領パプアをオーストラリアが引き継ぎ、第1次世界大戦後はドイツ領ニューギニアも併合した。
そして、1975年にはオーストラリアから独立した。
大東亜戦争当時はオーストラリア領であった。
国土は日本の1.25倍の46.2万平方km、06年の推計人口は619万人である。
気候は熱帯モンスーン気候で雨季(11月〜4月)と乾季(5月〜10月)に分かれている。
独立して36年経つが現在まで首相はマイケル・ソマレが続けている。
公用語は英語である。
現在、パプアニューギニアはバブル状態だそうだ。
原因はレアメタル、各国から調査のためこの国を訪れる外国人が多いためにホテル代など物価が跳ね上がっているそうだ。

ポポンデッタの空港は、事務所らしい平屋建てはあるが待合室は屋根だけであった。

そこは使わず、金網のゲートから出て直接迎えの車(日本製のワンボックスカー)に乗り込み、ホテルへ行く。ここは標高約100メートル、日本ほど暑くはない。
15分ほどでコンフォートホテルへ着いた。
周りを二メートルほどの高さの塀で囲ってあり、最上部には直径30センチほどの有刺鉄線を巻いてある。
建物は平屋で5〜6室の長屋のようになっている。
二人一部屋、一人1万3千円のここでは超高級ホテルだそうだが、日本ではなかなか見られない程度の低いホテルである。
ただし、予想に反して部屋に鍵もかかるし、冷房も作動した。これはうれしい誤算であった。
シャワーを浴びようとしたら、バスタオルが一つしかないのでフロントに電話して持って来させたが、翌日は全く無かった、電話すると破れたバスタオルを持ってきた。
しばらく休んで、昼食後ゴナ海岸に行く。
車は日本製の四輪駆動車が5台、少々古いがトヨタランドクルーザーと三菱パジェロだ。
ただし、ランドクルーザーは運転席の後ろを横に4人ずつ座れる用に改造してあり、10人乗りとなっていた。
添乗員の浜渦氏から旅へ出る前の注意事項として、現地では先生方はトラックで移動することになりそうです、トラックの荷台は板を渡しただけなので座布団を持っていっていただきたいという話であった。
最近、取材で現地へ行った高知新聞の福田仁記者に「むこうにもスーパーマーケットがあるそうだから、座布団ぐらい売っているでしょう」と私が聞くと、福田記者は「いやア、売ってないと思いますよ」というので、デイバッグに座布団をくくり付けて持って行った。
飛行機の中で座席に敷いていたら、ポートモレスビーで飛行機を降りる時に忘れてきた。
参ったなと思っていたが、この車を見て安心した。これなら座布団はいらないだろう。
ところが、ゴナ海岸までの約1時間、私は最後列に座る羽目になったが、町を出て10分もしないうちに舗装道路が終わり、ガタガタ道となった。
半分も走らないうちに、あまりの振動で腹が痛くなった。
ゴナ海岸に着いた時はほっとしたが、明日以降、振動の少ない助手席に座らなければこの旅は体が持たないと痛感した。
ゴナ海岸はきれいな砂浜で、戦争中は海軍の桟橋があったそうで、その名残の土手がある。
三人の県議で初の記念撮影をした。

小学生の団体が遊んでいて、土居議員が「子供がおおいなア、ここは少子化と無縁ですね」と感心していた。

戦争さえなければ、美しい海岸だ。ここから東に見えるバサボアという漁村辺りの一帯を日本軍はバサボアと呼んでいたという。
最終日に行く、激戦地ギルワとブナはもっと東でここからは見えない。
ゴナ海岸からの帰りに、西村さんの希望で二箇所に立ち寄った。
一つはオーストラリア政府が作った記念公園である。
きれいに管理されており、芝生の中には日本軍の75ミリ高射砲(当時優秀な兵器だった)が置かれていた。
もう一つは戦争中に日本人が敵のスパイと勘違いとして殺した二人のシスターの墓であった。
この辺では普通の民家の庭に記念碑が建っていた。
この家では生まれて1週間という赤ん坊が寝ていて、団の皆さんが寄って眺めていた。

また、ここで西村さんの知り合いの現地の老人が西村さんを見つけて駆け寄り、「日の丸の歌」を日本語で歌った。戦争中に日本語の教育を受けたそうだ。
ホテルに帰り着いた時には、車の振動で気分が悪くなっていた。
シャワーを浴びるが水の出が悪い、石鹸で体を洗い、水で流そうとしたら水が止まった。
洗面台のシンクの蛇口をひねると水が出た、配管が別系統になっているようだ。
こちらでタオルを浸しながら体を拭いた。
続いて大石君がシャワーを浴びたが、彼はシャンプーを泡立ててこれから流そうという最悪のタイミングで水道が止まった。「目が痛いー」と叫んでいるので、私がシンクの水を汲んで頭にかけてやった。
彼は学生時代にアジア各国を放浪し、インドでは一泊百円のホテルにも泊まったことがあるが、その宿でも、ここよりは水の出は良かった、なんだこのホテルはと怒っていた。
大石君は翌日も全く同じタイミングでシャワーが止まり、同じ事を繰り返した。
夕食は米と肉の炒めた物を皿に盛り合わせたもので、期待以上に美味しかった。
同室者の大石県議は、体重100キロを超えて暑がりなので、冷房をめいっぱいと天井の扇風機を全開にするので、音がうるさくてしかたがない。
途中で寒くなって切ったりつけたりの繰り返し、それでも寝られた。