パプアニューギニア慰霊の旅 その2

18日(月)午前8時過ぎにホテル発、今日はココダとバリイベ(バリベのほうが一般的か?)で慰霊祭を行う予定だ。
南海支隊がポートモレスビー攻略のために北部海岸からオーエンスタンレー山脈を越えて進軍した山道を走る。
ホテルの近くの朝市に止まった。

物騒な気もしたが、皆が車から降りて見て回った。
黄色と緑色の中間色のバナナを10本4キナ(1キナは約39円、156円)の表示があったのでそのままの値段で買った。10キナを出したら5キナしかお釣りがこない。おばちゃんに文句を言ったら、側に私の乗っている車の運転手が来て、おばちゃんに、もう1キナ出せといったらしぶしぶ出した。彼は警察官だ。
後で聞いたら、相手の言い値の半分くらいで買うのが普通だそうだ。
現地人はタロイモ、バナナ、椰子、若干の野菜栽培などを食べており、現金収入がなくても暮らしていける地域だそうである。
ホテルは350mlのビールが310円と日本並みの値段で高い、大石君がホテルで150ミリのペットボトルの水を買ったら日本円で二百数十円した、添乗員の浜渦さんがスーパーで買ったら120円であったと言っていた。
市場見物を20分ほどで切り上げ、ココダへ向け出発した。
50分ほど走ると舗装路が終わり、ガタガタ道となるが助手席に座っているので苦痛は感じない。
川が多い、雨期(11月〜4月)ではないが、一日2〜3回はスコールが来る、水の勢いが強いのかやたら橋が壊れている。
車が少ないので不便を感じていないのか、それとも予算がないのか、おそらく7割方の橋が壊れたままだ。
川の水は日本と同じようにきれいだ。
昨年9月に11日間に渡りこのルートを走破した高知新聞の福田記者に「この水は飲めますか」と聞いたら、彼はきれいな水なので飲んだために強烈な下痢に見舞われ何日も苦労したと言った。
川では洗濯をしたり、かわいい子供達が泳いでいる。
ココダの手前で急に山道が険しくなった。西村氏の話では、戦争中はあの山道はなかった。そのため、あそこで自転車と馬は放棄した。我々兵隊は崖をよじ登ってココダに着いたとのことである。
山道を約3時間揺られてココダに着いた。助手席に乗っていたので疲労はない。
ココダの慰霊碑のある場所はオーストラリア政府が管理しており、芝生が植えられた運動場のように広い場所にオーストラリア、米国、日本の三つの記念碑がある。

日本の慰霊碑の側には、「高知県出身戦没者将士ここに眠る、 昭和54年7月、高知県知事 中内力、高知県戦友ニューギニア会、遺族代表」と書かれたプレートがあった。

中内知事をはじめ高知県の慰霊団が訪れた時に作られたものだそうだ。
慰霊祭は君が代斉唱に始まり、私が高知県知事の献花、慰霊団の献花、ふぁーまー土居県議が「追悼の辞」、ご遺族の「追悼の辞」と続いた。

高知新聞の福田記者が自ら書いた「祖父たちの戦争」で紹介された佐川町の西森福太郎氏(70歳)から追悼の辞を預かって来ており代読した。西森氏は新聞の連載で初めて父親の戦死の様子を知ったという。
福田記者は西森氏の父に対する熱い思いに心をうたれたのか途中で詰まり涙声になった、聞いていた全員が感動した。
最後に南海支隊の奉賛歌「暁に祈る」を全員で歌った。この歌は陸軍船舶隊の歌であるが南海支隊の将兵の思いにぴったりの歌である。
高知県遺族会でフィリピンに慰霊に行った際は「ふるさと」と「海ゆかば」を必ず歌ったが、辻本団長は「海ゆかば」は海軍の歌と認識しているということで歌わなかった。
海ゆかば」は陸軍、海軍を問わず戦死者を弔う歌であるが、私が異論を唱える場面でもないので何も言わなかった。
また、徳島県から参加した佐野さんが、西村さんに「阿波踊りで慰霊したい」と申し出ると西村さんは「ニューギニア戦からビルマ戦まで、徳島県出身者とは行動を共にした、いい供養になるので踊ってくれ」と答えた。
佐野さんは家を出た時に、阿波踊りは死者の供養のための盆踊りなので現地で踊ろうと思い立ったとのことで、伴奏も何にも用意していない。そのため、佐野さんの指導で掛け声と手拍子のみ練習して盛り立てた。
ここで、昼食を食べていると、福田記者が旧陸軍の擲弾筒をどこかから持ち出してきて西村さんに見せた。
擲弾筒は日本陸軍独特の兵器で、手榴弾を遠くに飛ばす小型迫撃砲であり、西村さんは擲弾筒の射手であった。
ただし、この擲弾筒の弾頭が瞬発信管のため、ジャングル戦では頭上の木の葉に当たって爆発するため使える場面がほとんどなかったそうである。
公園の隅に博物館の小さな建物があり、擲弾筒はここから借りてきたらしい。
ここに入って見ると、写真の他に米豪軍が使った7ミリ7軽機関銃や12.7ミリ重機関銃の錆びて壊れた物もあった。

昼食後バリイベへ出発、ところが、ここで同乗のご遺族の夫人が車に揺られて気分が悪くなったので席を代わってほしいとの申し出があった、私のほうが年下であるので即代わった。
ココダからバリイベまでは約1時間で村へ着いた。
ここでは我々を歓迎する踊りをやってくれた。他部族との戦いの踊りのようだ。
ここでは、雨が降ってきたが村の一画に祭壇と雨が防げる屋根を葺いてくれていた。
雨が止むまでしばらく休憩することにした。
西村さんを囲んで村の老若男女が群がる、すごい人気である。

いかに、西村さんがここの人達のために尽くしてきたかがわかる。
西村さんの話では、ここバリイベはココダから逃げる際の回り道で、戦時中は、ここはジャングルであった。
日本軍のタコツボ跡が二つと豪軍のタコツボ跡が一つあるが、相手がすぐ側に来るまでわからなかったそうである。
この地で、高知の第144連隊第5中隊を中心に約170名が戦死したが、西村さんは負傷して運ばれていたので戦闘には参加していないとのことである。
数十分後に雨があがったので慰霊祭を行う、ここでは大石宗県議が「追悼の辞」を読んだ。


この地で高知県人が多く戦死したと聞いた大石県議が、慰霊祭が始まる前に「中西議長、ここで我々三人でよさこい節を歌いましょう」というので、「『よさこい節』より『南国土佐を後にして』がいいだろう、第44連隊の部隊歌であるし、よさこい節も入っている。」と私が答え、慰霊祭が終わってから県議三人で『南国土佐を後にして』を、今も一帯のジャングルに眠っているであろう英霊に届けとばかり歌った。
これが、慰霊団に感動をよんだらしく、ご遺族から次の慰霊地でも歌ってくれ、自分たちも歌いたいとの申し出があり、翌日は二ヶ所で歌った。
慰霊祭を終えホテルまで車で約2時間、後部座席の前の方に座わり1時間は未舗装路であったが何とか体も持ちこたえた。
途中のクムシ川で献花に使った花や、福山市の市会議員で一般参加の大田祐介氏が預かってきた写経を流した。

また、この日の帰り道は暗くなったが、途中で見かけた集落は電気が無い、水道も無い。
これが現地の人達の普通の暮らしである。