パプアニューギニア慰霊の旅 その3

7月19日(火)大石君は午前6時に、高知新聞の福田仁記者と西村さんが集めている遺品などを置いている倉庫を調べに行った。
午前9時5分ホテル発、今日は北部海岸のギルワとブナへ行き慰霊祭を行う予定である。
ギルワまで1時間ちょっとかかるという、初日にゴナ海岸に行き道路事情は分かっているので、添乗員の浜渦氏に頼んで助手席を確保した。
15分ほど走るとポポンデッタ空港、それを過ぎるととたんに舗装道路が消えた。
ここら辺りは湿地帯でもともと道路は無く、村と村を移動するのは船であった。
今日もギルワからブナへは船で移動する予定で、救命胴衣も日本から持参していた。ところが波が高いらしくて船が中止になった。
道路は戦後西村氏が移り住んでから、ご遺骨収容の理由付けのために作ったものだそうだ。
ここら辺り一帯で戦闘が行われたため、西村氏が日本から持参した重機で道路建設のために掘り起こすとたくさんのご遺骨が出てきたという。
粘土質の土壌のため、方々に深さ60〜70センチ、大きさ1〜2メートルの穴が開いており、車が大きく傾いて行かざるを得ない、その度にひやひやする。
先頭の車には西村氏と高知放送の田中記者がカメラを抱えて乗っている。
2台目の車には私と大石君が乗っており、田中記者は我々の車が大石君の体重で横倒しになって中西、大石両県議が車から這い出てくる映像を取ることを期待していたそうだが、運転手がうまく、前の車の轍を避けて微妙にコースを変えるので何とか横倒しにならずに済んだ。
この運転手は陽気な若者で、大石君に日本酒をねだり、大石君が、慰霊祭が終わったらあげると約束すると大喜びで、早く終わって日本の酒を飲むのが楽しみだとカタコトの英語で繰り返していた。
10時30分ギルワ着、ここら辺り一帯を日本軍はギルワと呼んでいたが、現地ではカプラハンボと呼び、海岸はサナナンダ村と呼ぶ。
昭和18年1月21日、第144連隊が全滅した場所である。
高知新聞・福田記者の書いた「祖父たちの戦争」によると、144連隊はギルワで1813人が亡くなっており、これはニューギニアにおける連隊の全戦死者(約3330人とみられる)の半分を超えていると書かれている。(第2部の4)
数年前まで、サナナンダでは、おそらく第144連隊の山本重省連隊長のものであろう銀の入れ歯のある頭蓋骨が、数十年来観光客の見せ物となっており、西村氏などのご尽力によって昨年日本に返還され、東京千鳥が淵の戦没者墓地に収められた。
ここも、普段はジャングルであるが我々が来るというので土地の持ち主が辺り一帯をきれいに整備してくれており、慰霊祭を行うために簡単な屋根付きの場所を作ってくれていた。
浜渦添乗員の車が遅れたため数十分待ったが、入口で土地所有者が歓迎の挨拶をしてくれて中に入る。
(写真真ん中は地主、右は浜渦添乗員と辻本団長)
地面に盛土があり、そこに、慰霊碑などが並んでいる、

この碑には「高知県出身戦没者将士ここに眠る、 昭和49年7月、高知県知事 溝渕増巳、高知県 戦友ニューギニア会、遺族代表、」と書かれている。
溝渕知事が戦友遺族会と共に訪れた時に作ったものだそうだ。
ここの慰霊祭では私が追悼の辞を読んだ、ここでの戦没者が多いため、ご遺族の方の追悼の言葉が続く、あまりの暑さに熱中症で倒れる方が出た。
ここでは、私たち3人の県議の他に高知県出身者が加わって「南国土佐を後にして」歌った。
慰霊祭終了後ここで昼食をとり、ブナへ向かう。
1時間15分ほどかかった。美しい海岸に出たとたんに車が砂浜にめり込んで動けなくなった。

そのため、車を降りて砂浜を歩く、目的地まで歩いて5分ほどだというが、それ以上あり結構しんどかった。
写真は歩き疲れた大石県議

この美しい砂浜は北を向いており、海のはるか彼方は高知である。生存兵士の手記を読むと、この海を見ながら故郷高知をしのんだということが何度も出てくる。
ここでは現地の方が歓迎の踊りで出迎えてくれた。

また、きれいに整地してくれている。ここにもギルワと同じ溝渕高知県知事の慰霊碑があった。


ギルワと同じく私が献花と、追悼の辞を読み、ご遺族の追悼の言葉、

最後に私から西村氏に尾崎高知県知事からの感謝状を渡した。
感謝状贈呈は西村氏には直前まで知らせていなかったそうだが、喜んでくれた。
ここで歌った「南国土佐を後にして」は、海を見ながら、故郷高知を思いながら死んでいった将兵のことが頭に浮かび最後まで歌えなかった。

この慰霊碑がある場所が、土地所有者が土地代を日本政府に請求したが断られ、西村氏が土地代を何十年か支払っている所だ。
西村氏と辻本団長が土地代の再交渉を行い、翌日、今年の分は我々3人の県議に福田、田中両記者を加えた5人で1万円を負担した。
この日もホテルに帰り着いたのは夜になっていた。