文化厚生委員会の岩手県視察

9月6日(火)、本日から県議会文化厚生委員会の県外視察調査で岩手県盛岡市に来た。
本日の委員会調査は 今年7 月にオープンした盛岡市立歴史文化館である。
図書館であった建物を再建築したもので工事費は19億7千万円、展示内容は洗練されていると思った。
視察の冒頭で歴史文化館の畑中美耶子館長が盛岡弁で歓迎の挨拶をしてくれた。
その盛岡弁が心に響いたので、説明会が終わってから畑中館長に「盛岡弁は素晴らしいですね、浅田次郎壬生義士伝を思いだしました。」と話しかけたら、なんと、「壬生義士伝」は畑中館長が、テレビも映画も方言指導をしたという。
畑中館長は元岩手放送のアナウンサーで、今は独立しているが現役のアナウンサーだそうだ。
壬生義士伝」については以前「日々雑記」に書いた事がある。
実在した幕末の新撰組隊士吉村貫一郎の事を書いた小説である。テレビでは渡辺謙が、映画では中井貴一が主演した。
私は学生時代から新撰組が大好きである。幕末時代、武士にあこがれ、武士の生き様を貫いた近藤勇土方歳三などの半百姓集団の生き様に共感を覚える。
京都では壬生寺をはじめゆかりの地や家を何度も訪れた。
壬生義士伝で、主人公が喋る盛岡弁が大変印象に残っていた。
とりわけ、「おもさげながんす」という言葉を連発する。有難うという意味らしい。
歴史文化館の取組も大変参考になったが、畑中館長と出会えた事が一番の収穫であった。

(写真:畑中館長と一緒に記念写真)
また、この映画でも冒頭シーンを飾った、盛岡地方裁判所構内にある「石割桜」もはじめて見た。ここは元南部藩の家老の屋敷であったそうだ。
石の割れ目にエドヒガン桜の種が飛んできて、石を割って成長したものだという。
現在、国の天然記念物に指定され、樹齢350年から400であろうと推定されている、すごいもんだ。

映画の中で中井貴一演ずる剣術師範が「南部藩の武士は石割桜のように強く生きろ」と弟子に話す場面がある、東北大震災における被災地の人たちの姿が、私の目にはダブって見えた。
出張前日の夜、何げなくテレビを見ていたら石川啄木のことを放映していた。
その中の歌で、亡き姉の恋人の弟と会うのが悲しいという歌があり、それが気になった。
歴史文化館の売店で石川啄木の本「一握の砂・悲しき玩具」があったので購入して読んでいる。
それで分かったが、私の気になっていた歌は
今は亡き姉の恋人のおとうとと
なかよくせしを
かなしと思ふ
という歌であった。啄木の姉はいくつで亡くなったのだろうか、いつまでも忘れられないという想いを込めた歌なんだろう。
短歌を読むのは中学校か高校で習って以来であるが、石川啄木が心に響いた。
ちなみに、歌集「一握の砂」の冒頭の歌は

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

であり、その他に以下のような有名な歌が載っている、

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る

石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし

これらの歌はおそらく中学生の時に習っていると思う、しかしその歌集の題名が「一握の砂」であることはすっかり忘れていた。

7日(水)7時30分ホテル発、遠野市の道の駅「みやもり」で自衛隊東北地方協力本部長の高橋俊哉一等陸佐と待ち合わせ、私が7月13日から15日まで視察したことを話すと、今は瓦礫も片付けが進み、見晴らしが良くなりすぎたと話されていた。
この町のシンボルになっている「めがね橋」を背景に記念写真を撮ってから出発。
9時50分頃、陸前高田市役所到着、ここで、自衛隊岩手地方協力本部釜石地域事務所の磯貝2等空尉が合流してくれた。
この市役所は海から1.5キロくらい離れているが、向かって左側が3階建て、右側が4階建てになっている。

(写真の真ん中が玄関、左が3階、右は4階建て)
左側に避難した職員は30数名が津波の犠牲となり、右側に避難した市長をはじめとする職員は4階の屋根に避難してかろうじて生きのびたという。
また、ここは川を津波が8キロ遡上して被害を受けたとのことである。
高橋本部長の案内で役所の屋上まで上がった。
3階建ての建物内はまだぐちゃぐちゃのままであった。

(写真は階段の様子)
庁舎の屋上から眺めると被害の凄さが分かる、東北震災で一番被害の大きかった市だそうだが街は壊滅状態である。

(写真は市役所屋上から海側の眺め、一帯は商店街であったという)
しかし、山側にある近くの小学校では校庭で小学生が体育の授業であろうか、大きな声を出しながら運動をしていた、ここは1階が水に浸かったがすぐに復旧できたそうだ。
これらの生徒は仮設住宅から通っている子が多いだろうが、復興に向けて動いている。

(写真は屋上から山側の眺め、見えづらいが正面の奥に3階建ての小学校があり、手前が校庭)

ここからすぐの県立高田病院に行く、ここは4階建て、4階の床から2メートルの高さまで津波が来たそうである。
この病院では入院患者51名中15名が津波の犠牲者となった。
この病院は寝たきり高齢者の患者が多く、津波から逃げるために医師と看護師でできるだけ屋上に上げたが、上げきれなかった患者が引き波で流された。
患者がマットの上に寝たままで流され、それを屋上から医師や看護師などの職員が見ていたがどうすることもできなかった。
流されて行く患者は職員達の方を見ながら手を合わせてお礼を言う人、手を振る人がいたという、切なく悲しい話であった。
屋上に避難した患者と職員は翌日自衛隊のヘリで救出された。
次に陸前高田市民体育館に行った。

(写真は体育館の玄関)
ここは市が避難所に指定していた所で、津波から避難して来た人達が百数十名いたという、ところが津波が体育館の天井まで達し、二人か三人の人だけが天井にしがみついて助かった。
引き波で窓から外に流された人もいて、この体育館での正確な被害者数は分からないという話であった。
翌朝、青森の自衛隊の部隊が一階のドアを壊して中に入ったが、百数十名が折り重なって死んでいる状況を見て絶句した、さらに天井にぶら下がっていた人を見て救出したという。
ここから直線距離で3〜400メートルだろうか、車で行ける高台がある、

(写真:体育館2階からのながめ、林の真ん中に車で登れる道路がある)
あの高台へ逃げるより市が避難場所に指定したこの体育館が大勢人もいるし安心感があったのだろうか。
ここを避難場所に指定した市の判断誤りは今後指摘されるであろう。
10時55分 高田の松原へ行く、一本だけ残った松が以外に大きいのに驚いたが、枯れかかっていた。

11時35分、大船渡市着、ここは後片付けが大分進んでいる、市役所、警察、消防の庁舎が高台にあったため津波被害から免れた、そのために復興が早く進んでいるという。
高橋本部長は「これからは市役所等の建物を高台に移すべきです、これがないと復旧・復興が始まらない」とおっしゃっていたが、高知県内の市町村も取り組むべきだと思った。
また、大船渡市は海底地形の影響で津波被害が比較的少なかったそうだ。
13時20分、釜石市着、岸壁に複数の貨物船が接岸し荷役作業が行われており、復興が具体的になっている。

一方で反対の岸壁には貨物船(アジア・シンフォニー号)が乗り上げたまま、これは解体するしかないだろう。

釜石警察署は海のすぐ側にあり、建てる時も、建ててからも心配の声が上がっていたというが、心配どおりになった。
この位置に警察署を建てる判断をした県行政の責任者の判断が問われる。
14時5分、大槌町視察、15時18分、宮古市視察、ここで自衛隊宮古地域事務所の関口所長が合流してくれた。
大槌町宮古市も7月と比べれば後片付けが大分進んでいる。
15時40分、宮古市田老町着、関口所長が用意してくれた資料には、津波前と津波後の写真が比較して載せてあり、大変参考になった。
それによると、田老町では初め造った堤防の内側で約1,000軒が、

(写真の右に堤防の一部が見えているが、左にあった町並みは全滅)
次に造った堤防(全壊)の内側で約600軒、合わせて1609軒が全壊、59軒が半壊となっていた。
また、資料には海抜10メートルの防波堤を乗り越える津波の写真もあったが、防波堤に安心したのだろう、防波堤の上から津波が来るのを眺めていた住民が相当いたそうである。
田老町だけの被害者数は出てなかったが、宮古市の死者は525名、行方不明者は122名となっているが、この資料では認定死亡者107名がダブルカウントされているとの説明書きがある。混乱しているようだ。
私が書いた7月のブログ東北被災地報告書に、6階建ての田老観光ホテルがぽつんと残っている写真があり、この周辺もおそらく家があったのだろうと書いた。
この場所は二つ目の防波堤の内側であるが、津波前の写真で見ると約600軒の建物が密集していた、津波後はホテル以外何にも無くなった。

(写真:建っているのが田老町観光ホテル、その手前は堤防の一部)
田老町は明治29年、昭和8年と津波によって町が壊滅している。今度は町全体が高台に移転して町造りをするそうだ。
ホテルへ帰りついたのは午後6時30分、11時間の視察であった、疲れたが実り多い視察であった。
あらためて思った、復旧は進んでいないが、何もなくなった同じ場所に街を復活させるのは無理ではなかろうか。
そして、高知県などの今後津波被害が想定される地域は、役所、警察、消防などの公共施設はお金がかかっても高台に移転するべきである。
また、被災地を荒らすアジア系外国人の集団が、詐欺、窃盗、わいせつ行為などの犯罪を行い、多くの被害が出たそうである。
特に福島県では住民が避難した20キロ圏内外で窃盗団が多かったそうだ。
8日(木)8時40分ホテル発、盛岡市先人記念館を視察、1階では新渡戸稲造記念室、米内光政記念室、金田一京助記念室があり、2階には政治、経済、芸術、文化に貢献のあった百三十数名が紹介されていた。
宿毛市には先人の資料室があるが、高知市にあるのかどうか知らない。県下の先人の偉業を紹介する県立施設があっても良いだろう。
10時30分、花巻市宮沢賢治記念館着、高知県立文学館など国内には多くの文化施設があるが年間来場者数が数十万を維持しているのはここだけ、しかも突出している。
副館長の説明を受けた、宮沢賢治は昭和8年に38歳で病死したが、死後数十年経ってから全国的に有名になった人だそうだ。
私はここを訪れるまで宮沢賢治に興味がなかった、「雨にも負けず・・・」の歌や、童話「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」の名前だけは知っている程度であった。
せっかく来たのだからと思って館内の売店で佐藤隆房著「宮沢賢治 素顔のわが友」を買って読んだ。
この本の初版は昭和17年に冨山房から出版されており、著者の佐藤氏は賢治の友人で、執筆当時は医師であり、口述筆記させたと書いてある。
宿毛へ帰るまでに読み終わったが、はじめて宮沢賢治という人の業績を知った。
なかでも、二つ違いの妹とし子さんが、24歳の若さで結核のため亡くなった後の歌(永訣の朝)は人の胸を打つ。
裕福な家庭で育ち、生真面目であるが相当変わった人であったようだ。
私は賢治本人よりも、長女を24歳で、長男賢治を38歳で看取ったご両親の心がいかばかりであったかについて感心があった。
私は童話について知らないが、この日も修学旅行の小学生を乗せたバスが何台も訪れていた。
これだけの入場者を記録するということは多くの人を引き付ける魅力があるのであろう。
今回の委員会県外調査は、津波被害を受けた岩手県海岸部の現状調査と、文学関係施設の調査の二本立てであった。
岩手県石川啄木宮沢賢治という二人の偉人を顕彰していることが良く分かった、高知県も文化人の顕彰を見直すべきだと思った。
個人的には両者を良く知るきっかけになった。