宿毛市の津波予想高その2

昨3日(月)、県議会文化厚生委員会が開かれ、危機管理部に宿毛市津波予想高の話をしたが、具体的な津波高は把握していなかったので、その後調べてみた。
前回、大島のハイタカ神社の階段の石碑で宝永の地震の時は海抜9.8mまで津波が来ていることを書いた。
「海抜」とは海水面から測った陸地の高さで干潮時と満潮時の年間平均を基準とするものであり、「標高」も同じである。
潮の高さは東京湾を基準としており、それに各地が修正をかけて発表している。
宿毛湾では夏場の大潮の時が一番干満の差が大きく、約3メートルであると記憶していたが、正確な数値を片島にある海上保安庁に問合せたところ、五月の大潮時が一番差が大きく今年は2.2メートルであった。
夏場の大潮の満潮時に津波が来たと仮定すると、宿毛市では約11メートル以上の津波が来ることを覚悟しなければならない。
幸いにも、過去の大地震は冬場に来ている。
1707年の宝永の大地震が十月四日、1854年の安政の大地震が十一月五日、昭和南海大地震が十二月二十一日といずれも冬場に起きている。
ハイタカ神社の津波跡については「宿毛市史」に出ていると書かれた本を読んだことはあるが、「宿毛市史」を読んだことがなかった。
そこで、宿毛市役所総務課から該当する箇所をFAXで送ってもらった。
過去の地震では津波以外でも火事で大きな被害を受けていることが解った。
参考のために以下に掲載するので、宿毛市のみなさんは是非読んで下さい。

参考「宿毛市史」抜粋
宝永四年の地震(1707年10月4日)
地震の内容については「谷陵記」や「丁亥変記」に詳しく出ており、それによって当時の様子を詳しく知ることができる。
当日は天気がよく温い日であったので、単え物を着ていた位であった。あまりにも温かいので、不思議だと思っているうち、午前11時過ぎに大地震が起こった。あまりの大地震であるため一歩も歩くことができず、山々の崩れる土煙が四方に立ちこめて闇夜のようになり、人々は恐ろしさにただ泣き叫ぶばかりであった。
 そのうちに午後1時過ぎより大汐が押しよせてきた。すなわち津波である。海岸の人家はすべて流出し、流れ死ぬ者は数を知らない状況であった。翌五日の晩までに、大津波が十二度もおしよせ、土佐国中が大被害をこうむったのである。
被害
流家       11,170軒
潰家        4,863軒
破損家       1,742軒
死者        1,844人
過ち人(怪我人)    926人
この津波宿毛市宿毛湾に面した集落は全滅している。              
また、宿毛で残ったのは土居にある領主の家だけであった。

大島の震災状況については、大島の庄屋、小野家家譜に
「宝永四亥年十月四日、大に地、震動し、山穿て水を張し、川埋まりて丘と成、浦中の漁屋悉く転倒す。逃がれんとすれ共、眩 て圧に打たれ、或は頓絶せんとする者若干なり。係りし後は、高潮入りなるよしつぶやく所に、大津波打て島中の在家一所として残る方なし。昼夜十一度打来る。中にも第三番の津波高くて、当浦ハイタカ社の石垣踏段三ツ残。」
とある、ハイタカ神社の石段は四十二段あるので、三十九段つかった事になる。

嘉永の地震
嘉永七年(一八五四年)十一月五日の大地震で、安政地震、寅の大変ともいわれている。この年十一月二十七日に改元されて安政元年になったので、安政地震ともいわれるのである。
 この地震については貝塚浜田家に「甲寅大地震御手許日記」という公的な記録があり、他にも「嘉永七寅年十一月五日地震筆記」などの記録があって、かなり詳しくその様子を知ることができる。
「甲寅大地震御手許日記」によると
十一月五日、その日は空もよく晴れ、寒気も厳しい朝であったが、昼からは温かく、よい天気であった。・・・・夕日が片島の上に落ちようとした時分に、突然大地震が起り、歩くこともできず、田の畦の杭などにやっとつかまっていた程であった。この地震の後、日没までに二回、夜中に七、八回も地震があり、宿毛の町の家は、大半つぶれ、その上に火災が発生して、全く大変な騒動となってしまった。家が潰れる度に土煙があがり、人々は火事だと騒いだが、実際の火事は、二、三か所であった。しかし、津波が来るといって皆が騒ぎだしたので、火を消そうとする者もなく、宝物一つ取り出す者もなく、皆が一目散に山上へ逃げ上った。
 そのうちに、大きな潮音と共に津波が押しよせ、八反の大堤を通り越え、一丈程も水田の中に潮が入り、日の入頃までに宿毛の町の中にまで潮が来た。潮先は、北は鎌田の雁木より少し上へ、本町は天神社の上の
横道肴屋の角、真丁は町詰まで来た。夜中にも二度まで津波が来たが、いずれも初回の分よりは低く、津波の害では宿毛では大したことはなかった。
 しかし、この津波騒ぎで、人々は山上に逃げており、出火をしても消す者もなかったので、火勢はいよいよ盛んになり、本町、真丁、牛の瀬、沖須賀、仲須賀の大半は焼けてしまった。たまたま半潰で残った家も、人の住めるのはなかった。・・・・
潮は牛の瀬川(松田川)におしよせ、河戸の堰の上へ、五、六尺も上がり、大目屋松次の舟は、積荷のまま堰の上へ上り、また難なく下った位であった。

なお、余談であるが、早稲田大学建学の母といわれる小野梓は三歳の時に嘉永の大地震にあっている。
彼の父節吉は、はじめ常次といって本町の北側(現四国電力付近)で薬屋を営んでいたが、この常次の記録があり、家は火災で焼失したとある。
「小野梓はこの家で生まれ、三歳の時にこの地震にあったのであるが、梓が少年の頃あまり勉学に精を出さなかったのは、この地震の時頭を打ったのが原因ではなかろうか、といわれた位である。」との記述がある。