各地の戦没者慰霊祭

10月15日(土)はフィリピン方面高知県戦没者慰霊祭が護国神社下の慰霊碑の前で行われ、県議会議長の公務で出席した。

坂本功高知県フィリピン会会長の話では、遺族が高年齢となり、一昨年の参列者が200名、昨年が180名、今年は160名と年々参列者の数が減っているという。
また、この日「ココダの約束」の主人公西村幸吉氏が、翌日のニューギニア戦慰霊祭に出席するため埼玉県から列車を乗り継いで来高し、大石宗県議、高知新聞の「祖父たちの戦争」を書いた福田仁記者と私の三人で高知駅に出迎えた。
西村氏の娘さん幸子さんの話では、西村幸吉さんは南海支隊遺族会の皆さんのおかげで、パプアニューギニアに小学校を建てるという目的ができて元気一杯だそうだ。
あいにくの雨の中、西村さんの希望で宝永町の幼友達の家を訪ねた。この周辺は最近区画整理で道路が広くなっており、目的の家を訪ねるのに手間取ったが、西村氏の記憶力の良いのに驚いた。
また、この日南海支隊遺族会事務局長の辻本喜彦氏も和歌山県高野山から車で駆けつけてくれた。
翌16日(日)は高知県ニューギニア方面戦没者慰霊祭が同じ場所の隣の慰霊碑であり、私も出席した。
高知新聞には200名の参列者とあったが、主催者の話では200名よりは少なかったということである。
初めに祭主として、御霊に捧げる追悼の辞を述べた高知県ニューギニア会の石元俊郎会長のお話は、父のいない子供の寂しさ、残された母と祖母の悲しみなどを話され、私は聞いていて涙を止めることができなかった。
こちらは昨年に続いて三名の戦友が出席され、その中に車椅子に乗った西村幸吉氏(91歳)がいた。
慰霊祭では3名の戦友が玉串をささげる姿に参列者から拍手が沸いた。
写真は玉ぐしを捧げる西村さん

慰霊祭の終わりに、遺族代表の室戸市の西村さんがお礼の挨拶をした。
その挨拶の中で、高知新聞で連載された「祖父たちの戦争」の話があり、西村幸吉さんに対するお礼の言葉があった。
「祖父たちの戦争」と、パプアニューギニアへの慰霊巡拝の旅が高知放送で放映されたことにより西村さんは有名人になった。
1時間45分ほどかかった慰霊祭が終わった後も、多くの人が西村さんの車椅子を取り囲み、熱心に話を聞いていた。
もっとも、かつて西村氏が戦ったオーストラリアでは西村さんを取材して書いた「ココダの約束」が相当数売れており、土佐の兵隊の強さが高く評価され、なかでも西村幸吉氏は英雄視されているそうだ。
10月10日に、東京にあるオーストラリア大使館から西村さん親子と辻本喜彦氏に招待があり、大石宗県議と私にも招待があったが、私は都合がつかず、大石県議が出席してきた。
その昼食会場で大使館員が「ココダの約束」英語版を持ってきて、西村氏にサインをしてもらって喜んでいたそうだ。
また、大使館員が高知市を訪れ、第144連隊の所在地朝倉や演習場所などを調査したそうだが、その際に高知県人が第144連隊を知らないことにがっかりしたと大石県議から聞かされた。
午後7時から高知市内のパレスホテルで西村さん親子を囲んで懇親会を開いた。
写真は左から吉村パレスホテル会長、西村さん、辻本氏
今年7月のパプアニューギニア慰霊巡拝団主催者の辻本喜彦さん、参加者の高知市の田所さん、神奈川県に住む大方町出身の花井さん、高知市の近藤さん、高知新聞社福田記者、高知放送田中記者、そして我々三人の県議の他にも、西村さんにお会いしたいということで、高知パレスホテルの吉村会長さん、花井さんと福田さんの友人の方々十数名が参加してくれた。
会の最後に高知新聞福田記者から、今後、先の大戦の遺品管理を県の歴史民俗資料館で保管してもらう活動について報告があり、大石県議が事務局をやることになった。
翌17日(月)は午前9時から尾崎知事を訪問、西村さんが感謝状をいただいたお礼を述べた。
尾崎知事は日程の都合がつけば、ぜひニューギニアに慰霊巡拝に行きたいと話された。


その後議長室に移動して、ここでも1時間ほど話を聞いた。
その後、南海支隊に所属していた広島県福山市の歩兵第41連隊の遺族の皆様と懇談するため、辻本氏の車で福山市に向かった。
戦後66年が経ち、遺族会も平均年齢が七十代後半と高齢化しており、遺品管理は孫の世代になってきた。直系子孫だけでなく、傍系子孫も遺族となっており、今後遺品の管理が難しくなる。
そこで、大石、土井県議をはじめ県議会の有志で、満州事変(昭和6年9月)から大東亜戦争に至る歴史資料を県の歴史民俗資料館で管理できないかどうかの検討作業を進めており、作業が進み次第、歴史民俗資料館での保管、並びに年に何回かの展示会を開催したいと考えている。