堺屋太一講演会in大阪

10月24日(月)、大阪市内外情勢調査会主催の大阪講演会があり、講師は堺屋太一先生、ちょうど大阪出張と重なったので聴きに行った。
演題は「第三の敗戦 そして第三の復興」、今年6月に出版された堺屋先生の著書と同じ内容であった。
講演後、「第三の敗戦 そして第三の復興」という本を購入して読んでみた。
太平洋戦争に対して「負けるとわかっていた戦争をはじめた」と書いてある。
私は大東亜戦争であると認識しているし、「負けるとわかっていた戦争」であったのは日露戦争であり、大東亜戦争ではないと考えている。
真珠湾攻撃から半年後のミッドウェー海戦に敗北するまで、日本軍は連戦連勝であった。
ミッドウェー海戦も戦力的には日本の方が若干上回っていた。
しかし、日本は情報戦、諜報戦に弱く、戦争指導者たる高級軍人、政治家は長期戦では不利であることを承知で停戦、戦争終結の長期戦略もなかった。
それがこの戦争に負けた原因であると私は考えている。
その点については、堺屋氏も著書で「日本の第二の敗戦、太平洋戦争での敗因は、軍官の組織の硬直化、つまり高級軍人や官僚たちの組織と思考の硬直化と、地位の身分化にあった。
もっとも、敗戦の責任は軍人軍部にのみあるのではない。文官官僚、とりわけ当時の官僚機構で中枢を占めた内部官僚の罪も軽くはない。」(同書89ページ)と書いている。
この分析には同感である。
講演の要旨は、3月11日の東日本大震災後の状況は、明治維新、太平洋戦争に続く第三の敗戦であり、今後は第三の復興に取り組むべきであるという話であった。
いずれの敗戦でも、復興において日本人は過去の組織とは全く決別して全く新しい組織を作り上げた、これを今後は見習うべきだと話した。
見事に立ち直った要因は日本の教育レベルの高さである。
1868年の明治維新の時点で、日本では男性の40%、女性の15%が寺小屋などの教育機関に通い、読み書きソロバンなどの基礎教育を受けていたといわれている。
幕末には全国に一万余の寺小屋があり、その多くは女性の入学も認めていた。このため日本国民の識字率はきわめて高かった。
これに対して欧米では、最も進んだ工業国であったイギリスでも教育機関に通う者は男性の25パーセントのみ、全ヨーロッパに女性の入学を認める教育機関は全くなかったそうだ。
明治維新では特に高杉晋作奇兵隊を高く評価しており、維新の立役者として西郷隆盛大久保利通坂本龍馬などがいるが、何よりも奇兵隊は身分を越えた集団の出現であり、すべてを一変させたのは高杉晋作のこの改革であり、これこそが新しい日本のはじまりになったと分析している。
そして、太平洋戦争の敗戦後の日本は経済、情報、文化創造の東京一極集中を国策として実施した。
昭和16年(1941年)頃、当時の政府は全国の頭脳機能を一極に集中することを決定した。それが経済統制にも情報管理にも役立つと考えたのである。
それは次の三つの政策である、①産業経済の中枢管理機能、②情報発信機能、③文化創造活動、この三つは東京都で行う、と決めたのである。
この政策が戦後も継承拡大された。
官僚主導と業界協調体制に、そしてのちには規格大量生産の形式に利用できたからである。
まず、産業経済の中枢管理機能の東京集中のためには、各業界に全国団体が作らされた。
物資の配給や統制、設備の割り当てなどに便利だったからだ。電機事業連合会、日本鉄鋼連盟、自動車工業界、全国銀行協会石油連盟等々である。
情報発信には紙と電波がある。「紙」については、書籍取次店の東京集中を行った。
書籍は全国4千社といわれる出版社から出され、1万数千の書店に並ぶ。この間には取次店があるが、都道府県の境を越えて流通する書籍は、原則として取次店を経由して販売される。
政府はこの取次店を東京に集中、日販(日本出版販売)、東販(現・トーハン)など数社に集約した。この体制が完成したのは東販が成立した1949年9月のことだ。
一方、電波の方は、単純に電波法の免許によって東京に集めた。戦争中に日本放送協会(NHK)の内規によって全国放送は東京中央放送局(AK)に集め、大阪のBKや名古屋のCKは放送地域を限定した。
やがてテレビ放送がはじまると、世界でも珍しいキー局システムが作られた。「キー局でなければ全国番組編成権がない」という仕組みである。そしてそのキー局は東京にしか認可されなかった。
「文化創造活動」の東京集中については、戦後の官僚は「特定文化施設は東京に集中する」という政策を採った。
例えば、歌舞伎の常設劇場、シンフォニーフォール、オペラ劇場は東京に集中し、地方にあるのは多目的ホールばかりである。
こんな地域構造を創った目的は規格大量生産のためである。
そして、この規格大量生産は戦後日本の高度経済成長に大きく貢献した。
しかし、平成2年のバブルの崩壊によってこの制度は終わった。
その後の二十年間は新たな政策を模索する時代が続いている、その終盤に東日本大震災がおきた。
今後の対策としていくつか話されたが、その要旨は次のとおりである。
○いま、日本政府が取り組むことはデフレの克服であるが、もう安物買いはやめるべきだ、社会で、家庭でそういう教育をすべきである。
○政府が補助金などの資金投入をするのは、農業など保護する分野ではなく、伸びる業界にすべきだ。
○日本では起業家が育たない、このシステムを何とか改善すべきである。六十過ぎの定年後の企業家はいるが、若い起業家が全く育っていない。
○年齢革命を起こす。具体的には現在の政府の労働適正人口(15歳〜64歳)の区分は間違っている。22歳〜70歳ぐらいに改正すべきである。そして、一日8時間、週5日間労働にこだわらず、自由な労働時間と労賃制を作る必要がある。
○高齢者が、お金をもっているというが、社会全体に高齢者が買いたい物がない、それらが作られていないことに問題がある。
○現状で増税はすべきでない。橋本内閣と同じ結果となるであろう。橋本内閣は9兆円の税金を徴収するために(消費税引き上げと、医療費値上げ)、その後景気回復に60兆円(GDPの12%)の資金を投入するはめになった。これは自分が経済企画庁長官の時に(1998年7月〜2000年12月)やった。
また、官僚制度の大改革をやる必要がある。
具体的には国の官僚に地方の政策をまかせるのではなく、地方が独自の政策を国に提言すべきである。そのために地方公務員のレベルを上げるべきだと話された。
これには賛成である。
高知県は尾崎知事になってから、国からの補助金のうち自由に使える補助金を多く獲得し、独自の政策を打ち出している。
堺屋氏は、現在の東北被災地の自治体職員にその能力が不足していると考えているようだ。
今の日本の政治経済の混迷についてはいろいろな分析ができるし、対策も考えているだろう。その一つとして、この堺屋太一講演会は大変参考になった。