ミクロネシア訪問記・その2

ホテルに帰り、11:30〜12:30ホテルで昼食、
13時〜14時、ホテル近くの学校の体育館で日本大使館主催のジャパンフェスティバルを見学、高知県からの友好視察団として紹介され、土居議員が挨拶。


鈴木栄一日本大使の開会の挨拶によると、本年2月の祭りは日本の文化を紹介した。今回は日本の祭りを紹介したいと思っている。


よさこい鳴子踊りは、JICAボランティアとして現地の小学校で教えている高知県出身の浜川先生の指導である。
法被は高知市から贈られたものである。


また、よさこいソーランは、同じくオオミネ小学校で教えているタケヤ先生の指導である。オオミネというのは、戦前日本の企業がきていたそうで、それが地名になっているそうだ。
午後2時過ぎに会場を後にして、スーパー に寄るが買いたいような物もない、記念にTシャツを一枚買った。
午後6時からは森ファミリー主催の夕食会、短大の体育館だそうで、前にもここでやったそうだ。
校内はよく手入れされている。
我々は総勢87名、それに加えて森ファミリーが大統領以下40名ほどいたのだろうか、これではレストランでは無理である。



ここもバイキング形式の料理、子豚の丸焼きが横たわっている、最高のもてなしだそうだ。あまり美味いものではない、日本人は味が肥えているのだろう。
昨夜食べられなかったマングローブ蟹を食べた。味は日本の蟹より劣るが、ここでは人気があるそうだ。2時間ほどでお開きとなりホテルに帰った。

一休みして夜中の飛行機でチューク諸島(旧トラック諸島)へ移動する。
午後10時30分ホテル発、同じ州だが、出国手続きがいる。午前1時20分ポンペイ空港発、約1時間のフライトでウエノ島(旧春島)のチューク空港へ着いた。
時差がマイナス1時間なので、現地時間午前1時45分か、待合室に入ってすぐにえらい勢いでスコールが降り出した、台風並みの雨と風だ。
我々の乗ってきた飛行機はこれからグアム島へ向かうがこの天気ではすぐには飛び立てないだろう。グアム島までは1時間ほどで着くそうだ。
観光局の局長が来るので暫く待って下さいとの事であったが、観光局長は来ず、しばらくして荷物が出たとのことで外へ出たら雨も小降りになっていたが、凄いスコールだった。
しかも、島の北端にある空港から南端にあるホテルまでの道路がすごい。
通常は15分ほどで着くそうだが、水道工事を昨年から?やっているそうで、デコボコで時速数キロでしか走れない、何のためか警察の先導車(ピックアップトラック)が着いたが、もとより信号もなく45分ほどでホテルたどり着いた。
ホテルへ着いたのが朝方の3時半頃、この移動はかなりきつかった、夜中に移動するものではない。ここはこの飛行機便しかないので仕方が無い。(帰りの飛行機で日本人アテンダントに聞いたら日曜日だけだそうだ)

(写真はウエノ島(旧春島)ホテルのバルコニーから見る旧夏島、現トノアス島、この間に戦艦大和と武蔵が碇泊していた写真が残っている)

写真は戦闘機のものらしいプロペラと、旧日本軍の25ミリ機関砲を食堂側の庭に飾ってあった。
私にとってトラック諸島はいつか訪れたい地域であった。
大東亜戦争で、日本軍は最初の半年間は米国、英国、オランダの軍隊を蹴散らし、無敵の進軍を続けた。
ところが、昭和17年6月のミッドウェー海戦で惨敗、帝国海軍の正規空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛竜」の4隻を一挙に失い、同時に優秀なパイロットも多勢失った。
それからは米軍の反撃を受け、ニューギニアの戦い、ガダルカナル島の戦い(昭和17年8月〜昭和18年2月)、そして、ギルバード諸島のマキン(昭和18年11月23日玉砕)、タラワ(昭和18年11月23日玉砕)の戦い、ラバウル攻防戦など南太平洋の島々で連戦連敗を続けた。
この時分に帝国海軍連合艦隊が集結していた後方兵站基地がトラック諸島であった。
昭和17年から19年にかけて山本五十六長官が座乗した戦艦大和、武蔵をはじめ連合艦隊がこのトラック環礁に停泊し、春島(ウエノ島)の南隣にある夏島(トノアス島、現在はデュプロン島と呼ばれている)には日本帝国海軍、陸軍の一大基地があった。
下の写真は撮影時期が昭和17年5月となっていた、春島と夏島の間に停泊している戦艦大和と武蔵で、背景の島は私が泊まった春島で、私の部屋から見える場所であったことが帰国して調べて分かった。

当時は軍人・軍属・民間人合わせて2万人の人口があったそうで、当時の写真を見ると基地の建物や町がある。
ところが、昭和19年2月17日と18日の米軍による猛爆撃で、陸上基地は徹底的に破壊され、環礁の内外では40隻近い輸送船、タンカー、駆逐艦などが撃沈された。
また、夏島のすぐ南には竹島と呼ばれた小さな島に戦闘機の滑走路が作られており、空襲時にも数十機の戦闘機がいたが、ラバウルからの二〇一空派遣隊のゼロ戦8機など、全機喪失した部隊もある。
また、空襲の数日前にラバウル再進出のため二〇四空等の為に準備されていた100機以上のゼロ戦、しかも当時の新鋭機である零戦52型が輸送されていたが、この空襲で一度も戦闘に参加することなく全滅した。
夏島で宿泊したホテルのロビーには当時の写真が十数枚あり(下の写真)、竹島はあたかも空母のようであり、何人かがこれは空母ですかと聞いた。


(写真:現在の竹島は木々に覆われ緑の島だが、戦争中は平地に木は無かった。)
トラック諸島に対する上陸作戦はなかったが、米軍からみればフィリピン侵攻作戦を実施するに当たり、トラック諸島の航空基地が脅威であり、ここを潰してからフィリンピン侵攻作戦を実施しないと被害が大きくなると判断されたわけである。
この空襲の後、終戦まで、現地人だけであれば豊富であった食料は足りなくなり、約6千人の兵隊さんが餓死したと記録されている。

21日(月)午後1時30分、大東亜戦争中は海軍の基地があった旧夏島にボートで渡る。
船は10人乗りほどの船外機付き日本製の伝馬船である。
今日は朝から北の風が強く心配であったが、午後は風が落ち着いた。
それに、夏島は春島の真南にあるので「行きはよいよい帰りは恐い」だ。


案の定帰りは波をかぶってびしょ濡れになるところであったが、持参のポンチョのおかげで私は助かった。しかし、隣に座った浜田県議は、ポンチョを持っていたが帰りは着なかったためにびしょ濡れになったし、何人かはびしょ濡れを楽しんでいた。
当時は軍人・軍属はじめ民間人も合わせて2万人ほどの日本人がいたという記録が残っているが、現在はジャングルで覆われ見る影も無い。
桟橋も無く、桟橋跡らしいコンクリートの岸壁らしきものがあるが、我々が着いた時が満潮か干潮かわからないが水没しそうな高さである。
船を降りて2〜3百メートル歩くと、森小弁の記念碑があり(下の写真)、その上には旧軍関係の施設と小弁の作った運動場があった。
この建物は庁舎と刑務所だと言っていたが、留置場か、ここで現地の人達が貝細工のお土産を売っており、皆さんが買い求め私も買った。


戦前にこの島は日本軍の基地があったおかげで上下水道が完備されていたそうで、消火栓があった。
ミクロネシア大使館員の通訳である末永氏の話では、現在は3〜4千人ほどがこの島に住んでおり、小学校も4校あるということだが、島をボートで一周したが船から見る限りまとまった集落などは見えなかった。
末永氏の話では、戦後、米国が国連からの委託統治を始めてから、米国は日本統治時代の遺跡を破棄するか放置するかしたために日本統治時代の建造物等は残っていないとの事であった。
夏島に渡ることを楽しみにしていたが、何の戦跡も見ることができず残念であった。
時間があれば、ジャングルに入れば戦績が残っているだろうが、暑いしきついし、行く気力も無い。
帰りは、竹島の滑走路の近くにゼロ戦が沈んでいるので見えるとの事で行ったが、全然分からなかった。
波が荒くなったので、元来た航路はとらずに島の反対側、東側を回って帰ったので結果的に夏島を一周することになった。
夜はもう一組の人達が止まっているトラック・ストップホテルで、チューク州日系人協会の婦人部とホテルの持ち主の共催による歓迎会が開かれた、もちろん、森一族もたくさんいた。
婦人部の歌がよかった。