ココダ再び「ココダの約束」西村幸吉さんも同行・その2

はじめに昨日訪れたブナとギルワの戦闘について記す。

高知新聞社の福田記者の書いた「祖父たちの戦争」によると、144連隊はギルワで1813名が亡くなっており、これはニューギニアにおける連隊の全戦死者(約3330名とみられる)の半分を超えていると書かれている。

また、チャールズ・ハペル氏の「ココダの約束」から引用すると、昭和18年1月12日、自力で歩けない兵士たちに向かって、「西村の直属の軍曹は、負傷兵のなかでも比較的体力のある者たちに告げた。『この場所を死守してくれ。そのために機関銃と弾薬をいくらか残していく』。西村は思った。この約二百人の、傷つき病に倒れた兵士たちは、まもなくアメリカ軍とオーストラリア軍に包囲される。この南海支隊所属のボロボロの負傷兵らが敵の砲爆撃で粉々に吹き飛ばされるまで、長く持っても二日か三日だろう、と。しかしこのボロボロの負傷兵らは、実際にはそれからさらに十日間も戦い続け、最後の一兵になるまでこの抵抗線を守り抜いたのである。」

この10日あまりの戦闘は、米・豪軍にとっては負傷兵の抵抗だとは全く気付かなかったそうである。この間に西村さんたち生き残りの兵士たちはギルワを脱出できた。

この時、西村さんは生きて帰ったら、戦友の遺骨は必ず拾いに戻ると心に誓ったそうだ。これが、戦後三十数年たって60歳を過ぎてから、家族も会社も捨ててニューギニアに戦友の骨を拾いに戻った原因だそうである。

 

7日(月)午前8時30分ホテル発、車で5分ほどの市場で20分ほど見学、3年前は地べたに布を敷いて商品を並べていたが、今回はテーブルが並べられ、売っている物も、食べ物だけでなくカラフルなライターなども売っていた。

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遺族の女性が現地人が噛んでいる檳榔樹(びんろうじゅ)の実を噛んでみたいと言ってそれを買った、これは覚醒作用があるそうだ。

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(写真:檳榔樹の実を買った安岡さんと卒田さん)
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私も薦められて噛んだが、苦いのなんのって(写真はその時の顔である)、昨年訪れたトラック諸島のポナペ島で飲んだ、木の根を突いた泥水のようなシャカウほどではないが、少ししびれ、口の中は真っ赤になる。

 

9時05分市場発ココダへ向かう、距離は約75キロ、約3時間かかる予定だ。

我々の車には、ご遺族の安岡公子さん、尼僧の卒田理愛さん、飛崎利永子さん、田所満穂氏、小松満次氏ご兄弟と私が乗っていたのだが、今日はガード役の現地人一人を降ろし当会の世話役である辻本さんが加わり話がはずむ、辻本氏は得意の下ネタを飛ばし笑いがあふれる。慰霊巡拝の旅とはいえ堅苦しいばかりでは疲れる。

いくつもの川に橋が無いのは3年前と同じだが、道路は予想以上に舗装が進んでおり、2時間10分ほどでココダに着いたが、1台のランクルがパンクしたそうで、ココダの公園の近くで約20分間この車を待って、11時30分にココダ着。

ここは高台にあり、日本軍はここをよじ登って攻撃したそうだ。

ここからポートモレスビーへ行く山道が「ココダトレイル」といわれてオーストラリア人に人気のトレッキングコースになっており、この日もちょうど我々が着いた時に三十人以上のオーストラリア人の団体がトレッキングに出発した。

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ここは単なるトレッキングコースではなく、彼らは太平洋戦争において、頑強な日本軍に対してオーストラリア軍が抵抗を続け、祖国防衛のために多くの犠牲をだした地であるとの教育を受けた上でトレッキングに参加しているそうである。

ここの慰霊碑に山砲の砲身が置いてある。

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「ココダの約束」によると、この砲身は、撤退中にゴラリという村で、堀井支隊長が山砲兵第55連隊第1大隊第3中隊長であった高木中尉に対し「山砲隊は砲を分解処分し、傷病者を後送せよ」との支隊長命令を出した時に、当時24歳の高木中尉は分解した砲身を埋めた場所で拳銃自決をした。

当時の砲兵操典には、「火砲は砲兵の生命なり。故に砲兵は火砲と運命を倶にすべし」と書かれていたそうである。

それが戦後村人によって偶然掘り起こされ、遺骨収容にこの地を訪れた日本軍の元軍属中橋氏によって、この砲身がその時の砲身であることを確認され、現在ここに安置されている。

 

慰霊祭の準備を進めていると雨が降り出したために一時中止、車の中で昼飯の弁当を食べる。この弁当はサンドウィッチが二切れとフライドチキン、ゆで卵、バナナ1本、パパイアが一切れ、地元では豪華な弁当であろう。

慰霊祭開始、ここでは井奥部長による尾崎知事の追悼文代読、辻本喜彦氏、広島県福山市議の大田祐介氏、ご遺族の飛崎利永子さんが追悼の言葉を述べた。

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辻本氏の追悼文は(写真は辻本氏)、ポートモレスビー戦史をよく理解している辻本さんならでは文章であり、後で同行のご遺族が印刷してほしいと言った。

また、飛崎さんの追悼文はラバウルで戦死された祖父を思う心にあふれていて感動した。

14時ココダ発、14時40分バリイベ着(現地ではワジュ村と呼ばれている)。

ここは前回、槍を持った現地人が昔の戦闘の踊りをやって歓迎してくれたが、今回はなかった。後で聞いたら、手違いで地主に連絡がいってなかったそうで、最初は不機嫌であった。

ここは、昭和17年11月、撤退する際に第144連隊第2大隊と第3大隊の拠点があり、連隊本部もおかれていたそうであるが、この周辺で144連隊の残存兵はほぼ全滅状態になったそうだ。

慰霊祭の準備をしていると西村さんが娘の幸子さんに「兵隊さんを呼んでくれ」と言った。

同行している自衛官のことだ。濱田2等陸尉が来たので私も一緒に話を聞いた。(写真)

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西村さんは「ここは濱田中隊長が部下を率いて戦った所だ、あの山裾から敵が攻めてきた。あなたならどう守りますか」と聞いた、濱田2尉は「守りにくい地形ですね」と答えていた。

この話の初めに、たまたま戦争中の中隊長と自衛隊の中隊長が同じ名前なので混乱し、濱田2尉は「私が濱田です」と頓珍漢な答えをしていた。

ここでは高知出身の144連隊第5中隊を中心とした約170名の兵士が戦死したと聞いた。西村さんはその当時負傷して担架で運ばれていたそうだ。

バリイベの慰霊祭では井奥部長の知事追悼文代読、辻本さんによる西村幸吉さんの追悼の言葉の代読、自衛官・村中義孝氏の追悼の言葉があった。

追悼の言葉を聞く西村さんの顔は、昔を思い出しているのだろうか、深い悲しみで涙ぐんでおられた。それを見た私は深い感動に打たれた。

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ここでは最後に奉賛歌「暁に祈る」ではなく、「南国土佐を後にして」を歌った。

前回来た時に、ここで多くの高知県人が戦死したと聞き、奉賛歌の後で大石君が「中西議長よさこい節を歌いませんか」というので、「それなら、鯨部隊の隊歌でもあった『南国土佐を後にして』を歌おう」と言って、土居県議を含めて3人で歌った。

すると、これがご遺族に感動を与えたらしく、私たちも一緒に歌わせて下さいといって、翌日の慰霊祭でも歌った、そのため、辻本さんの配慮でここでは「南国土佐を後にして」を歌うことになったようだ。

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(写真のプレートは一昨年尾崎高知県知事がこの地に奉納した物)

しかし、歌っていると、どうしてもこの地で、故郷の家族に思いをはせながら無念の戦死を遂げた英霊たちの思いが頭に浮かび、声が出なかった。

16時バリイベ発、途中クイシ川で花や卒塔婆を流し、黙祷を捧げた。この川を渡河する際にも多くの兵士が死んでいる。

この日は時々雨が降り、川が増水して二か所でスリル満点の渡河を経験した。

特に一か所の河は深くて1メートル以上はあった。現地人が乗ったトラックが河を渡れずに数台立ち往生しており、現地人が車から降りて我々の渡河を見物していた。

我々の車はなんとか渡り終えたが、後に続く2台の車がすぐに来ないので待った。5台の車列を組んで移動するのは安全確保のためであり、視界から離れて遅れると必ず待つ。

この日は時間が押したため、もう一か所西村さんが建てた記念碑による予定であったが中止してホテルへ帰った。午後6時頃に着いた。

昨日はシャワーが無事に出たが、この日は水の出が悪い、シャンプーしようとして泡立てた途端にシャワーの水が止まり往生した。

前回、大石君が同じ目にあい、その時は私が洗面台の水を汲んでかけたのだが、この日は洗面台の水も出ない。

大石君は「水を汲みましょうか」と心にもないことをいいながら、すでにカメラをかまえて私の困った姿を撮っている。その写真は後日掲載しましょう。

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前回より1日短い日程であり、多少道路の舗装距離が長くなっているとはいえ、かなり体に堪えた。

しかし、前回とは違った同行者と話が出来て有意義であった。

とりわけ4名のお孫さんのそれぞれの追悼文を聞いて感動した。

写真でしか知らない祖父の顔、そして何のために日本から6千キロも離れた地で戦死しなければならなかったのかも最近知ったのであろう。現地に来て、いくらかでも祖父に対する思いが変わったであろうことが感じられた。

また、一般参加者が9名あった。戦後69年経ち、遺族会が高齢化して活動が縮小してきている現在、一般参加者が増えることが今後の遺族会の活動存続に繋がる。

政府のご遺骨収容活動にも、一般の多くの若者が参加している。こういう方が増え、大東亜戦争で戦死された英霊の慰霊と同時に大東亜戦争の意義を語り継ぐことが大切であると思う。それが平和に繋がる。

帰国して尾崎知事に報告にいった井奥部長によると、来年は尾崎知事も行く気になっているとのことである。その際には平和を愛する岩城副知事も同行することを願う。