敗戦記念日近し

本日(8月12日)の産経新聞一面のトップ記事に「眠れぬ墓標 インパール作戦70年」と題する特集が出ている。「上」とあるので後、「中、下」と続くのであろう。
このブログの7月31日に、「有馬哲夫「1949年の大東亜共栄圏 自主防衛への終わらざる戦い」を読んで」を書き、その中で、大東亜戦争を指導した旧帝国軍人幹部の総括が未だになされていないとの話を書いた。
インド東部の軍事根拠地インパールを攻略する作戦は、当初より軍内部で、補給が続かないので作戦遂行は無理だとの意見が多かったにもかかわらず、第15軍司令官牟田口廉也が強引に推し進め、膨大な犠牲者を出した事で知られている。
その詳細は後で記す戦記を一冊でも読んでいただくとよく分かります。
インパール作戦は昭和19年3月から始まったが、その2年前、昭和17年9月から始まったのがニューギニアポートモレスビー攻略作戦である。こちらは大本営参謀・辻政信が現地司令官に対して「これは陛下のご意志である」との嘘をついてまで始めた作戦であり、高知市で編成された第144連隊の約3,300名の戦死者を始め、多くの南海支隊の兵士が豪軍、米軍との戦いに加えて、補給の不足による飢えと病気で戦死している。
私はこの南海支隊の戦友遺族会の役員をしており、何度もこのブログで書いたので、ポートモレスビー攻略作戦については省略するが、補給と輸送を全く考えないで、道無き道を徒歩で長距離に及ぶ攻略作戦を考案し、多大な犠牲者を出した責任者は全く断罪されていない。
しかも、牟田口も辻も戦後も生き延び、牟田口は死ぬまで自分の作戦の非を認めなかったし、辻は戦後参議院議員にまでなっている。
この帝国軍隊の体質はなにも陸軍に限ったことではない。
海軍でも、第一航空艦隊司令長官として真珠湾攻撃で燃料タンクや倉庫に対する第二次攻撃を躊躇し、米軍の反抗時期を早めたという間違いを犯し、また、昭和17年6月のミッドウェー海戦では、敵空母発見の報と同時に、空母「飛竜」に乗っていた第二航空艦隊司令官・山口多聞少将が、陸用爆弾のままでの敵空母攻撃を進言したにもかかわらず、これを躊躇し、その結果主力空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛竜」の4隻を失うという大敗北を指揮した南雲忠一司令官、草鹿龍之介参謀長のコンビも何の咎めも受けていない。
帝国軍隊では信賞必罰がハッキリされていなかったのに対し、米軍では、作戦毎に階級の下の軍人でも適材適所で登用した。
例えば、米海軍は、ある作戦では能力のある少将を中将に一時的に登用して作戦を指揮させ、その作戦が終了するとまた少将に戻すということをやっている。こんな柔軟性を持った任用を行う軍隊は強いであろう。
残念ながら帝国軍隊は、年功序列優先で米軍のような柔軟性はなかった。現在の日本の官僚機構もそんなところが往々にして見えると思う。
先に挙げた有馬氏の本の中で、戦後、警察予備隊を創設する際に、当時の吉田茂首相が、服部卓四郎元陸軍大佐などをはじめとする旧軍の指揮官クラスが警察予備隊に入るのを徹底的に阻止した事が紹介されている。
吉田茂の、旧軍幹部に対するこの強い思いが結果的に日本国憲法の改正を遅らせたと私は考えている。
先日もある会合で、戦後の日本は大東亜戦争の敗戦に対する総括ができていないとの話があった。
いつやるか、出来るのか、難しい問題であると思うが、私はやるべきだと思う。
参考にインパール作戦に関する私が読んで参考になった本を紹介します。
インパール作戦は米国と英国がインドを通って中国に軍事援助をするのを阻止しようとした作戦ですが、ビルマ、中国での戦いも含めて全体はビルマ作戦と呼ばれています。
高木俊朗「インパール」(文春文庫)、著者は元陸軍報道班員としてビルマ作戦に従軍しております。
古山高麗雄「断作戦」「フーコン戦記」「龍陵会戦」(文春文庫)、著者は陸軍一等兵としてビルマ作戦に従軍しており、この三冊は三部作といわれてます。
楳本捨三(うめもと すてぞう)「壮烈 拉孟守備隊」著者は小説家です。
深沢卓男「祭兵団 インパール戦記」、著者は陸軍大尉としてインパール作戦に従軍しております。