特攻70年・高知

29日(水)高知市の自由民権記念館で開催されている「特攻70年・高知」企画展に行って来た。
下の写真がその宣伝チラシであり、誰にもらったか定かでない。
f:id:nakanishi-satoshi:20141030074339j:plain
この写真に写っている左側お二人の特攻隊員が旧大方町の出身であることは、以前発行された本のカバーで知っていたが、この本は読んでいない。
先日、門田隆将氏の講演会の事を書いたが、この講演会で高知に里帰りしたものだった。
門田氏の講演会の話に出てきた鍋島さんが、元高知新聞社の記者で、サンサンTVのディレクターであったこともわかり、この企画展で偶然鍋島さんからこの企画展の話を聞くことができた。
門田氏の講演会で、前日におこなった「特攻、その真実」と題する講演会の話があり、鍋島さんが主催したとあったので、インターネットで捜している内に、鍋島さんが高知サンサンTVのディレクターとして平成22年(2010年)5月30日にドキュメンタリー番組「最初の特攻、最後の特攻  高知・65年目の真実」という番組を放映していたことにたどり着いた。
その中で、鍋島ディレクターが、最初の特攻で亡くなった大方町の宮川正さんの実兄晋さんを取材した際、「『おんしゃらあ(君たちは)何で特攻ばかり取り上げるんじゃ。異国の地で野垂れ死にした一兵卒も、特攻死も、空襲で逃げ惑った揚げ句死んだ国民も、皆が戦争の犠牲者と違うんか。カメラは断る』
中国戦線で歩兵として死線をくぐり抜けてきた特攻兵の兄の言葉に、録画ボタンを押そうとした指が硬直した。」という文章があり、それが強烈な印象として残った。
この記事をみて、宮川正一等飛行兵曹が第一神風特別攻撃隊・菊水隊の一員として零戦で昭和19年10月25日、フィリピン・レイテ島沖の米海軍の護衛空母「サンティー」などに特攻攻撃を行ったことを知った。
これは同日行われた関行男大尉が指揮する敷島隊の特攻より3時間ほど早く、最初の特攻攻撃であるという。
しかし、現在の軍の公式記録では敷島隊が最初の特攻隊とされている。
私は10月21日に戦死した久納中尉が最初の特攻攻撃であるが、久納中尉は予備学生出身であり、戦果が確認されていないこともあり、海軍兵学校出身の関行男大尉を最初の特攻であると認定したものとの説を信じていた。
しかし、敷島隊より約3時間早く菊水隊が同じ海域に突入したことは始めて知った。
また、宮川一飛曹と同郷の野並哲一等飛行兵曹も10月29日に同じ海域に初櫻隊の隊長として、零戦で特攻攻撃をかけて戦死したことも初めて知った。
早速黒潮町役場に電話して、お二人のお墓の場所を調べてもらった。役場から電話があり、大方あかつき館の山沖館長が詳しいとのことで、電話をしたらすぐに教えてくれた。私の故郷のように戦没者の共同墓地はないという。
夕方、高知市で会合があったので、車で早速自宅を出発、黒潮町下田の口の野並さんのお墓を探した、集落の共同墓地があるだろうと思っていたがそれもない。作家の上林暁のお墓の近くの集落の狭い道を入って行くと人がいたので聞いた。
偶然にも野並さんの親戚の家で、すぐ近くに叔母が一人で住んでいるが今居るだろうかと言う。車を降りて訪ねると野並さんの弟萬さんの奥さんであった。
お墓を教えてもらうと、自分が近くまで案内してくれると言う。お墓は近くの山の上にあった。
戦前は野並哲海軍少尉(戦死後特進)のお墓があったが、戦後は野並家のお墓に移したとのことであった。
f:id:nakanishi-satoshi:20141030111729j:plain
側には移す前の墓石があった。(上の写真、名前の上に海軍飛行少尉と彫ってある)
奥さんの話では、弟の萬さんは、兄の特攻の話をするのを長い間拒み続けたという。現在身体の具合が悪くて入院中であるが、サンサンTVの取材がある頃に、奥さんが「私が話すのならいいですか」と問うと、「それならいい」ということで、奥さんも何度か取材を受けたという。
この日は時間がなくて宮川正さんのお墓に行くことが出来なかった。翌日、あまり期待しないで表題の特攻企画展に出かけた。
サンサンTVからドキュメンタリー番組三部作のDVDが出ていることも分かったので、サンサンテレビに問い合わせたがテレビ局では販売していないと言う。
企画展ではこのドキュメンタリー映画も上映しているというし、DVDも販売しているかもしれないと思って出かけた。
映画の上映会は11月1日だが、会場内のテレビでDVDを放映しているという。
展示は、航空特攻で戦死された高知県出身者52名について詳しく紹介されていた。
会場で県庁OBで戦史に詳しい弘末さんに偶然会った。
弘末さんは、伯父さんがニューギニア戦線で第144連隊の一員として昭和18年1月にギルワで戦死されており、ニューギニア戦域戦没者慰霊祭には何度も参列され、今月19日にも慰霊祭で会ったばかりである。
会場でDVDも販売していたので購入し、弘末さんと一緒にテレビ放映をしている一画に入った。中には6~7隻のパイプ椅子を置いてあり、三部作の第一回目である「暗き南溟の彼方に」という番組が始まった。
平成17年(2005年)7月31日に放映された番組で、同年10月にはフジテレビでも放映されている。
内容は高知航空隊から発進した、練習機白菊による特攻のドキュメンタリーであった。
テレビのそばで主催者のスタッフの名札を付けた方が二度解説された。
1時間番組が終わりお礼を言って帰ろうとすると、「失礼ですが、中西さんではないですか」と話しかけられた。
この方が鍋島康夫さんであった。樋口県議と高知新聞社で同期であったという。名刺には「主宰:土佐之國近未来研究処」と書かれてあった。
鍋島さんからこの番組を作ったいきさつや、この企画展をやった経緯を聞いた。
鍋島さんは「主催メンバーには(思想的に)右もいれば左もいます。右であれ、左であれ、高知県出身が最初と最後の特攻攻撃を行ったという事実を知ってもらいたい。」と話された。
また、私が昨日野並さんのご遺族を訪れた話をし、弟の萬さんの話をしたら、最終的に萬さんもインタビューを受けてくれ、それはドキュメンタリーに入っているとのことであった。
アパートへ帰ってサンサンTVのドキュメンタリー番組「最初の特攻、最後の特攻」を見たら、萬さんのインタビューも入っていた。
短い時間であったので、機会があれば番組製作時の苦労話をじっくりと聞いてみたいと思った。
野並萬さん、宮川晋さん、最初の特攻とされた関行男大尉の母、特攻隊のご遺族は、戦後の特攻隊に対する国民の評価の変転に大変な苦労をされたのであろうと思う。
会場の部屋を出るとレストランに弘末さんが座っていたので同席させてもらい、遅い昼飯を一緒に食べながらニューギニア戦域遺族会の話などをした。西村幸吉さんを題材にした戦記「ココダの約束」を読んでいないとのことなので贈呈する事などを話して別れた。
この日は野並哲一等飛行兵曹率いる神風特別攻撃隊・初櫻隊が突入して70年目の命日であった。