フィリピン視察その2

11日(月)午前8時30分ホテル発、今日はスービックへ移動だ。スービックはマニラから130キロ北西にある港だ。

マニラの交通渋滞もすごい、学生やサラリーマンはバスで通う人が多いらしく、中心街へ向かうバスの列が多い。

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途中2箇所でトイレ休憩したが、途中にクラーク空港があった。

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写真ではわからないかも知れないが、戦前はこの一帯に幾つかの飛行場があり海軍航空隊が配属されていた。昭和19年10月に最初の神風特攻隊が編成されたのはこの場所で、同月25日に関行男大尉率いる敷島隊が飛び立ったのは、この内のマバラカット飛行場であり、昨年2月に来た時は、高速道路の側にある特攻像のある記念公園にお参りした。
現在はクラーク北空港と南空港の看板があったので二箇所の民間空港が使用されているようだ。

バスは予定通り午後12時45頃スービックの昼食会場へ着いた。

その後、ライトハウスホテル(下の写真、灯台という意味)へ移動して一休み、午後2時からスービック湾をバスで視察、現地ガイドが説明役。

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1991年までは米海軍基地、ピナツボ火山の噴火と比米間関係の悪化で返還された。

その後、海軍の貧弱なフィリピンを見て、中国が南シナ海のフィリピン領土を侵略しまくった。

ここは天然の良港で水深は8メートルから13メートル、特別に海底掘削はしていないそうだ。周りを陸で囲まれ波も穏やかだ。

経済特区は広さは約6万平方メートル、空母が接岸していた岸壁や飛行場もあるが、近くに元米空軍基地のクラーク空港があるので現在ではあまり活用されていないとのこと。ガントリークレーンも4基ある。

スービック地区は、旧米軍基地のほとんどが現在では経済特区となっており、フェンスで囲まれ一般のフィリピン人は立ち入ることが出来ないので治安が良い、後でここに立地している日本電産で話を聞いたが、日本人などの外国人も安心して暮らせるとのことだった。

コンテナヤードは中に入ることが出来なかったが、相当に広い。

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下の写真はトラックや建設機械のバックフォーなどの駐車場で、これらの車は日本から輸入した中古車で、時折オークションを行いフィリピン全土から買いに来るとの事だ。
また、ここに来て初めて現地人の集落があることを知った。
下の写真はその入り口だ、集落はここからさらに2時間歩いた所にあるそうだ。
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少し小柄な民族だ。彼らはスービック経済特区のほとんどの土地の地主で、その地代で裕福な暮らしをしているとの説明であった。
1時間30分の視察で午後3じ30分に一旦ホテルへ戻った。
Wifiの通じるロビーでブログを書いていると、高知港湾協会の会長として参加している青木章泰四銀会長と事務局長として参加しているタグボート会社、高知港運(株)専務の久保田正樹さんが降りて来て、散歩に行くというので一緒に行くことにする。県の近藤振興監も加わり、ホテルそばの砂浜海岸を歩く。
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(私の写真の後ろに見える灯台のあるのが宿泊したホテル)
天然の良港で有ることが良く分かった。(下の写真2枚がホテルから見たコンテナヤード、3枚目は韓国の韓進の工場と専用岸壁)
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夜は午後6時30分から、宿泊しているホテルで前夜祭。
ホスト役のスービック湾港に加えてINAPのメンバーであるセブ港(フィリピン)、タンジュンペラ港(インドネシア)、コロンボ港(スリランカ)、青島港(中国、今回は不参加)、木浦新港(韓国)、高知新港の7港に加えて、韓国の唐津(タンジン)港が新しく参加希望とのことで、金市長はじめたくさんの方が参加しており、紹介された。
この夕食会はあまりにも簡素だったもので、ホテルのレストランに移動してしばし歓談して散会。