そんな時期に、選挙運動から帰って自室でテレビを付けたら、たまたま「桜田門外の変」という番組をやっていた。もうほとんど終わりかけていたから何とは無しに見ていたら、桜田門外の変の参加者が逃亡の末に捕縛される所であった。
犠牲者を出した諸般の藩士にとっては、井伊直弼はとんでもない弾圧者であった。
水戸藩でも藩主水戸斉昭が隠退蟄居させられ、憎っくき敵であった。
安政7年(1860年)3月3日に決行された井伊直弼襲撃事件は、実行者が水戸藩士17名に薩摩藩士・有村次左衛門を加えて18名。その中で討死1名、現場で負傷の末に自刃した者が有村を始め4名、深傷による死亡が3名、自首した上死罪が7名であった。
その後、この物語の主人公関鉄之助が捕らえられて死罪になった。その時点でなお3名が逃走中で、増子金八と海後磋磯之介は明治以後も生きた。
この書によると、襲撃時の傷が元で死亡した数名と、死罪になった者の遺骸は刑場の小塚原に打ち捨てられたという。
現在の我々は酷い仕打ちをしたものだと思う。
拷問で惨殺された関係者も数名いるが、関鉄之助の妾であった「いの」はわずか23歳で、関の逃亡先を言えと責められ拷問死させられた。
吉村昭氏は、この事件と昭和11年2月26日に起きた陸軍将校によるクーデター2.26事件とを比較する。