知覧特攻記念館にて

自民党の県議7名で熊本県鹿児島県に政務調査に来ている。
8日は鹿児島県の知覧にある特攻記念館を訪れた。
陸軍の特攻基地があった場所で有名だ。
午後1時前に着いたが、この日も結構な人出だった。
初めに語り部の説明を受ける。
知覧基地からの指令で飛び立った陸軍の航空特攻は1,036機、その内この知覧基地から直接飛び立った特攻機は約430機ということだ。その内高知県出身者は6名。
語り部は80歳前後の男性、話を聞きながら心を打たれ涙が流れた。
ここには当時の陸軍の4式戦闘機「疾風」、3式戦闘機「飛燕」が展示してあり、映画の撮影で作製使用された「隼」、そして近くの海底から引き揚げられた「零戦52型丙」が展示してある。ただし、零戦は前半分のみしかない。
「疾風」と「飛燕」はここにしかないそうだが、館内は全て撮影禁止なので写真を撮ることができなかった。
私は、ここ鹿児島県では海上自衛隊鹿屋基地内にある旧海軍特攻隊記念館には行ったことがある。
その他に海軍兵学校靖国神社、大津島の回天特攻隊記念館などを訪れ、多くの特攻隊員の遺書を読んだ。
ここにも多くの遺書と遺影が飾ってあり、丹念に読んでいった。
その中で、読んでいて意味の分からない遺書があった。
それは藤井一中尉の遺書であった。以下の遺書である。

「冷えた12月の風の吹き荒ぶ日
荒川の河原の露と消し命。母と共に殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母と共に消え去った、幼い命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追っていけることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこして寝んねしようね。
それまで泣かずに待っていて下さい。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。
では暫く左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では
一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂だい。」

それまでの遺書は祖国に対する思い、母や家族に対する思いがつづられた遺書であったが、この遺書は何度読み返しても意味がわからない。
この基地から飛び立った特攻隊員は最年少が17歳、最高齢が32歳である。
20歳前後の特攻隊員の多い中で藤井中尉は29歳、飛行機の前で撮った遺影は凛々しいお顔であった。

その謎は、記念館で買った佐藤早苗著「特攻の町知覧」という文庫本(光人社NF文庫)を読んで分かった。
藤井一中尉はパイロットではなかったが、熊谷陸軍飛行学校の中隊長として飛行機乗りの教官をしていた。
時節柄、多くの生徒が特攻隊員として出撃して行った。
「俺もかならず後からいく」と言った生徒との責任を果たすために、藤井中尉は特攻隊員を志願したが中々受け容れられなかった。
藤井中尉は中国戦線で負傷し入院中に、当時野戦看護婦として勤務していた福子という恋愛結婚で結ばれた妻と、3歳と生後4ヶ月の二人の娘がいたという。
妻の福子は二人の娘と自分をおいて特攻を志願する夫の気持ちがわからず、ずいぶんと言い争いもしたそうだ。
それでも夫の決心が変らないと悟った時に、福子は娘二人を連れて無理心中する道を選んだ。
昭和19年12月15日の早朝、夫が週番士官で基地に泊まり、家を空けている間に、妻福子(当時24歳)は3歳の娘になる一子と、まだ4ヶ月にしかならない千恵子と共に荒川に身を投げ、紐で結ばれた三人の遺体は荒川に浮かんだ。
近所の人の通報で、基地にいた藤井中尉に知らせがはしった。
この遺書は、その日の深夜、藤井中尉が母に連れられて死んでいった一子に宛てて書いた手紙で、藤井中尉の妹さんが保管しているものだそうだ。
決して読まれることのない、死んだ娘への手紙である。
藤井中尉はその半年後、昭和20年5月28日、知覧から出撃した第45振武隊隊長として沖縄近海洋上で戦死された。
搭乗機は二式双発襲撃機、250キロ爆弾を2発ぶら下げての飛行だったそうだからどこまでたどり着けたか不明である。
以上の事が、佐藤早苗さんの本に書いてあった。
私は戦法としての航空特攻作戦に賛成するものではない、やってはいけない戦法だと思う。
しかし、命令を受けて出陣して行った隊員の崇高な精神を顕彰する気持ちは人一倍強い。
私が大学生時代に議論していた同世代の大学生には、そういう気持ちを持った学生は少数派であった様に思う。
こうした悲劇を繰り返さないためにも、日本は強力な防衛能力を維持すべきであると考えている。


written by iHatenaSync