宮城県視察その2

4日(火)午前9時10分ホテル発、安部孝宮城県議が同行してくれる、バスで40ほど走り、仙台市若林区蒲生地区でオランダ型の大型ハウスでトマト栽培を始めた、農業生産法人(株)みちさきを訪問して菊地守社長から説明を受けた。


この地域は仙台市南部の海岸地域に近く津波被害を受けた。仙台平野と呼ばれ、被災前は米作の盛んな地域だ。
被災後は田圃の土を入れ換え、昨年から米作を再開しており稲刈りの後が見える。
この地にオランダ方式の大型野菜工場を設立する構想が自治体主導で生まれ、(株)みちさきが参加したものだそうだ。
ハウス面積は1万2千m2、7m高のハウスを総事業費13億円をかけて作った。そのうち約3億円が土地のかさ上げ費用で、当初計画の3倍に膨らんだ。現在の人員は正社員15名、パート従業員28名の体制だそうだ。
ハウスの最低気温を16度としたいが、燃料費がかさむので12度にしているという。
私の地元三原村カゴメとの契約栽培をしている三原菜園と比べると、経営は相当に大変だ。
次に昼食会場である、名取市の「閖上さいかい市場」に行く、門に水と書いて「ゆりあげ」と読む。
津波で壊滅的な被害を受けた地域だ。

ここへ行く時には写真のように大雪となった、昨日とは大違いだ。
この地域出身のバスガイドさんの説明では、ここ仙台市南部から名取市にかけての海岸地域は、歴史に残っている過去の地震では津波被害を受けたことが無かったとそうだ。
そのため東日本大震災でも津波に襲われることは想定しなかった為に、被害が大きくなったという。
私は被災宮城県を視察するのは4回目になるが、この地域は仙台空港から仙台市に向う高速道路上から眺めるだけで、現地に入ったのは初めてであった。
あの津波被害のテレビ映像で、砂浜に津波が押し寄せ、家とビニールハウスが押し流される映像があるが、それがこの地域であり、震災の夜のニュースで「若林区荒浜地区に多数の遺体が打ち上げられている模様」と放送があり、私はそれを聞いてこれはえらいことになっていると思った。
バスガイドさんの説明では、震災後、この地域の映像はあまり流れなかったが、それはあまりに凄惨な状況であったので放映できなかったのだという。
辺りは一見水田の跡地かと思ったが、家の土台が一面に残っており住宅地であったことが分かった。

閖上さいかい市場」は仮設の商店街、テレビで何度も放映された。ここで地元選出の石川利一県議が合流し、海鮮丼を食べながら震災の状況を聞いた。

(写真は昼食後「浜や」の前で撮影)
昼食後、石川県議の先導で前浜地区にある宮城県漁協閖上支所を訪れ、出雲支所長の話を聞いた。
ここは現在では出雲支所長をはじめ赤貝漁が中心だそうだ。
被災前の組合員は約60名、現在は約30名、そのうち12人が赤貝漁で生計を立てている。
被災前の赤貝漁の水揚げは、20人で約6千万円であったが、昨年は12人で1億3千万円の水揚げがあったという。
震災後に赤貝が増えた原因は不明、翌年の試験操業で赤貝がいることがわかり、中古船2隻を購入して赤貝漁を再開した。翌年から国の補助金を受けて約5千万円かけて船を新造した。
現在は取り過ぎないように資源管理をしているが、いつまで好調が続か分からないという。

写真のように、津波被害を受けた漁港の整備も進んでいる。
石川県議が、この近くに昔作った人工の高台があり、そこから町全体を眺めてほしいとのことで、ここへ上った、6~7mの高さだ、津波はこの高台も飲み込んだそうである、現在は写真の慰霊碑と小さな神社を建立していた。



石川県議から頂いた写真資料に被災前と被災後の町の比較写真があった。ここ閖上地区は仙台空港のすぐ南の地域で、上の写真の見渡す限り商店街と住宅街があった。
7千人の町が一瞬にして消えたそうである。死者・行方不明者合わせて793人。
現在、町全体を3メートルかさ上げし、2千4百人の町を再建する計画があるが、住民が戻って来るのは難しいと話していた。
その後、この地域で被災し、現在、近くで工場を再開した笹かまぼこ製造会社「笹直」を訪問、社長から、自ら撮影した津波の写真を見ながら被災時の様子の説明を受け、その後補助金で再開した仮設の工場の見学をした。
社長は被災時、社屋の屋上に上がり写真を撮った、その時の判断が良かったかどうか、今も答えが出せないと話した。
この地域は、仙台平野のど真ん中、山から遠く車で逃げる人で大渋滞を起こし、車ごと津波に飲まれた方も多かったそうだ。

written by iHatenaSync