中西輝政教授の「国民の文明史」

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中西輝政教授の「国民の文明史」を読んでいる。文庫本だが600ページの力作、読みづらい本だが半分ほど読んだ。その中に元寇について以下の記述があり、同じ思いでいたので納得した。
文永の役(1274年)は戦うことを回避しなかった「鎌倉武士の決意」が最大の"勝因"であったことは明らかであろう。・・・
文永の役の1日目に、鎌倉武士が博多の浜で奮闘したことに加え、非常に革新的で強い軍事力を誇った元軍を前に、日本軍はいったんは太宰府の付近まで退き、なおかつ継戦の意志を失わなかった。そしてそこに台風がやってきたわけである。
あのとき、鎌倉武士が敢然として戦わなければ、元軍は無事に博多に全軍上陸し、あとは京や鎌倉を目指して攻め上るばかりであっただろう。博多の浜での抵抗が、結果的に重要な意味を持ったのである。
左派的な戦後の歴史学者達は、『日本はなんの展望もなく、愚かにも大モンゴル帝国への朝貢の求めを蹴って、自ら無謀な戦争に入り、ただ祈祷するしかないという、まったく愚昧な対応をした。もし偶然に台風が来なかったなら日本はひどい目に遭っていた』などと批判する。」
この批判は大東亜戦争を決断した当時の指導者にも当てはまる論理だ。
中西教授は続いてこう書いている。「元は中国に引き上げた後、その敗北の経験を伝え、それが歴代の中華王朝の『申し送り事項』となる。そのため、明の時代になっても、日本征服の上での地理的困難さと『侍』の軍事力というのは大変な災いとなる。日本には国全体に非常に強靭な抵抗力がある、あの国を攻めてはならない、という教訓が残ることになる。これは、明朝から清朝にまで伝わってく。」
そして、この項の最後に次のように書いていた。
元寇に関しては日本は勝ったわけだが、たとえ軍事的に敗北しても、抵抗するという事は、世界の歴史においても、しばしば将来に対して重要な安全保障になる場合がある。大東亜戦争においては、文字通り神風特攻隊や沖縄戦をも含めて、日本は大変に強い抵抗と軍事的能力を示したために、アメリカやソ連など周辺国に戦後も長く大きな印象残すことになった。冷戦の時代にソ連や中国が日本に手を出さなかったのは、アメリカが守っていたからというだけではなく、中ソの側に『日本はうかつに手を出すと怖い国』という記憶が鮮明にあったから、いわば『寝た子を起こすな』という、たいへん慎重な対日政策に終始したことも大きかった。アメリカが日本を守るーーしかもたいへん日本にとって好条件でーー決意をするのも、大戦中に示した日本の軍事的潜在力の大きさにも原因があったのである。
歴史の連続性ということを考えたならば、「玉砕」というのも、春秋の筆法をもってすれば決して無意味ではなかったのである。それが後世どんな意味を持つかというのを、同時代人の意識だけですべて判断してはいけないということである。」
私は、このブログで度々、昭和19年9月からのペリリュー島攻防戦、続いて昭和20年2月からの硫黄島攻防戦、そして同年3月からの沖縄攻防戦が戦後のアメリカの占領政策を決めたと書いてきた。
日本人は百パーセント負けると分かった、絶望的な戦においても、最後の一兵まで戦い抜く民族であると分かって、アメリカの軍人は驚愕した。
そして、この民族に二度と再び軍事力を持たせないと決め、日本国憲法第9条と96条とを作った。
しかし、時代は移り、アメリカ軍にとってもっとも頼りになるパートナーが日本の自衛隊である事をアメリカの軍人は知っている。
政治家がこの日米のパートナーシップをどう使うかが問題だ。