山口多聞と日本の指導者

数日前の夜。たまたまテレビをつけたらBS放送で映画「山本五十六」をやっていた。山本五十六役は役所広司、初めて見る映画であった。
昭和16年12月8日の日本海軍による真珠湾攻撃、そして昭和17年6月5日のミッドウェー海戦における、第二航空戦隊司令官山口多聞少将の活躍を見て、再度、松田十刻著「山口多聞」を読み返した。
今朝の産経新聞の文化欄に「ミッドウェー海戦のif  指揮官の器と山口多聞」と題する記事が載っている。
拓殖大学日本文化研究所客員教授濱口和久さんという方が書いている。
山口多聞少将は、ミッドウェー海戦において、空母「飛竜」とともに運命を共にして、満49歳で戦死した。
生きていれば山本五十六の後の連合艦隊司令長官になっていただろうといわれる逸材であった。
真珠湾攻撃の際、当初から第3次攻撃によって燃料タンクやドック施設の攻撃を主張したが受け入れられなかった。
この新聞記事には、戦後、「米太平洋艦隊司令官であったニミッツは『ニミッツの太平洋海戦史』で『攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。この燃料が無かったならば、艦隊は数カ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう』と述べている。このことも、第3次攻撃を打診した山口の識見の高さがのちに評価される所以となった。」と書かれている。
このニミッツの話は有名である。
また、ミッドウェー海戦において敵空母発見の報告を受けると同時に、陸用爆弾をつけたままでも攻撃機を発艦すべしと、南雲長官に進言したが、これも受け入れられず、陸用爆弾から航空魚雷に搭載変換している最中に米軍の急降下爆撃の攻撃を受け、空母「加賀」「赤城」「蒼龍」が瞬く間に被弾して撃沈された。
山口多聞が機動部隊の指揮官であれば、これだけの被害に会わずに済んだかもしれない。そして、山口少将の指揮する「飛竜」だけが生き残り、米海軍空母「ヨークタウン」を撃沈した。
その「飛竜」も米海軍の空母エンタープライズ」「ホーネット」からの攻撃隊により撃沈され、山口少将は加来止男艦長と共に自らの意思で艦と運命を共にした。
真珠湾攻撃はともかく、ミッドウェー海戦の指揮を執った南雲忠一司令官、草鹿龍之介参謀長のコンビは敗戦責任を取らされる事もなく続投した。
日本海軍という組織は信賞必罰が全く出来ていない。
そんな時に「昭和天皇独白録」(文春文庫)を読んだ。
ここにも、大東亜戦争開戦時、終戦時に決断出来ない日本の指導者が描かれている。
組織が硬直化すると国を誤らせる事例が書かれている。
日本人はこの反省を十分していないのではないかと思う。