1985年(昭和60年)8月12日、羽田発大阪空港行きの日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落して33年が経ったと報道されている。
私がこの事故の一報を聞いたのは、東京の神田神保町のビル管理業務に就いており、宿直の日であった。一晩中テレビを見ていた事を鮮明に覚えている。
この事故の8年前、大西洋の北アフリカ沖にあるカナリア諸島テネリフェ空港の滑走路上で、パンアメリカン航空とKLMオランダ航空のジャンボ機同士が衝突し、583人が死亡という最悪の航空機事故が起きていた。
それ以来の犠牲者数であった。
昨日の新聞で、当時11歳の息子さんを大阪の親戚を訪ねるために一人で飛行機に乗せて事故にあった父親が、毎年御巣鷹山に登り、息子が好きだった赤いパーカーを墓標のそばに掛けている記事を読んだ。
生きていれば44歳、子供サイズのパーカーも大人サイズのMサイズに変わったと書かれている。
父親も78歳と記されている。夫婦で羽田空港に送り、せがまれてコーラを買い与えたのが最後の思い出との事だ。
このご夫婦は、この33年間息子さんのご冥福を祈る事を生活の中心にして過ごされてきたのであろうと思った。胸が悼む。
こういう事故で残されたご遺族は、おそらく死ぬまでこの事故の犠牲者を思って生きて行くのだと思う。そういう意味では、残されたご遺族も犠牲者だ。
仕事柄毎週のように飛行機に乗る。安全運航を祈るのみである。