20日(土) 午後1時から高知県護国神社の石碑前で、高知県フィリピン戦域戦没者慰霊があり参列した。
下の写真は奉納の舞い
(次の写真はお礼の挨拶を述べる高知県フィリピン遺族会の竹内会長)
この地域での高知県戦没者は4千9百余柱、フィリピン戦域は海戦も多く、日本人戦没者は53万柱と聞いた。
私は遺族ではないが、十数年前の県議時代、当時高知県遺族会会長であった依光隆夫県議にお願いしてフィリピンへの慰霊巡拝の旅に参加させて頂いた。
ルソン島のマニラから出発し、山下奉文大将が最後まで戦った北部へ向かいバスで移動しながら、各地で慰霊祭を行った。
私にとって、大東亜戦争はそれまで歴史の上の事であった。しかし、この慰霊の旅で遺児の方々が父親が戦没した地で「お父さーん」と叫ぶ姿に心を打たれ、遺児の方々にとって戦争は今も続いている事を知らされた。
1週間かけてルソン島北部を回り、最後は南部の日本人戦没者慰霊塔をお参りした。
舗装してあるとはいえ日本とは全く違う道路を、オンボロバスに揺られて身体中が痛かった。
その数年後、今度は高知県遺族会フィリピン会長からお誘いを受けてもう一度フィリピンを訪れた。
この時はバスも前回より少しは新しくなり、ルソン島のより北部へ行くことが出来た。
慰霊祭の間、その時の事を思い出しながら、同行した遺族の皆様の事を思っていた。
今回は百名以上の方々が参加されていた。
戦後73年が経ち、遺児の方々も70代後半だ、孫の世代が活動し始めたが、いつまで慰霊祭が続けられるのだろうかと思った。