アフガン 中村哲医師の偉業

2019年12月4日中村哲医師はアフガニスタン東部ナンガラハル州の州都ジャララバードにて銃撃され、亡くなられた。心からご冥福を祈りします。

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遅まきながら、その中村哲医師の書かれた本(上の写真)を読んだ。感動しました!

この本は2013年10月に発刊され、今年9月に第20刷が発行されているが、初めて読んだ。

中村医師が銃撃されて亡くなったことは知っており、タリバンの1グループが犯行声明を出した事も知っていたが、当時の私は中村医師の事を詳しく知ろうともしなかった。

最近になって、中村医師の特集を報道した番組を見て、彼が、火野葦平の書いた「花と龍」の主人公、玉井金五郎の孫である事を知り、また、火野葦平の甥(母が兄妹)であり、さらに残された写真で玉井金五郎とそっくりであるのを見て俄然興味を持った。

私は「花と龍」の大ファンで、小説、映画、村田英雄の歌、全て大好き人間です。

それで、以前読んだ本を探したが「花と龍」は見つからず、今月改めて岩波の文庫本を買い、再読したばかりであった。

本書によると「私とアフガニスタンを結んだのは昆虫と山である。」

中村哲医師は当初、1984年5月に、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)という団体から声がかかり、パキスタン北部のペシャワールへ医師として派遣された。

その後、PMS(平和医療団・日本)の一員として、引き続きパキスタンアフガニスタンハンセン病患者の治療の為に赴任した。

この地域はパキスタンアフガニスタンの国境地帯で、国境はあってなきが如く、アフガニスタン多民族国家だが、この地域に住むのは最大多数のパシュツゥン民族、彼らは自由に移動していたという。

同書によれば(以下「」内は同書からの引用です)、中村氏が、医師でありながら用水路整備に力を入れるようになったきっかけはアフガニスタンを襲った大旱魃だそうた。

「猛威をふるっている大旱魃は、今もなお、ほとんど知られていません。かつて自給自足の農業立国、国民の九割が農民・遊牧民といわれるアフガニスタンは、瀕死の状態なのです。」

「2000年春、中央アジア全体が未曾有の旱魃にさらされた。五月になってWHOが注意を喚起した内容は、鬼気迫るものがあった。アフガニスタンの被害が最も激烈で、人口の半分以上、約1200万人が被災、400万人が飢餓線上、100万人が餓死線上にあり、国連機関が警鐘を鳴らした。食糧生産が半分以下に落ち込み、農地の砂漠化が進んだ。家畜の90%が死滅し、農民たちは続々と村を捨てて流民化した。これがアフガン戦争に次ぐ第二次大量難民発生で、その数、100万人を下らないと言われる。」

中村氏のいた『ダルエヌール診療所』周辺でも栄養失調と脱水で倒れる子供たちが急増し、死亡する者が後を立たなかった。

「餓えや渇きを薬で治すことはできない。医療以前の問題である。そこで、アフガニスタン東部の中心地、ジャララバードに水源対策事務所を設け医療事業と並行して、水源の井戸掘り、灌漑設備の充実を進めてきた。餓えは食料でしか直せない。そして、食糧生産は農業用水を必要とする。数千町歩を潤して緑を回復する『マルワリード用水路』は、その帰着点と呼ぶべきものだったのである。」

これが中村氏を用水路整備に力を入れさせた原因だそうだ。

「2003年3月に着工、6年5ヶ月をかけて2010年2月に完成した『マルワリード用水路』はクナルール州アリババからナンガルハル州ガンベリ砂漠の最終点まで主幹の総延長24.8キロメートル、分水路16.7キロメートル、1日送水量40万トン、灌漑面積3120ヘクタール(町歩)となった。灌漑に必要なすべての設備を網羅し、大小の貯水池12、水道橋5、サイフォン12、地下トンネル水道1、橋梁26、取水門1、分水門33らを含む堂々たるものである。総工費14億円はすべてペシャワール会に寄せられた会費と募金によって賄われた。」

これらの灌漑事業は本来なら国か地方自治体の仕事であるが、アフガニスタンではそれらが機能していない。

中村氏によれば、国や地方の政治家や役人は都市部に住み、地方へ出て来ようとしない。

それだけ治安が悪いのであろう。

米国による20年間に及ぶアフガニスタン侵攻、支配の中で、米国軍の戦死者約2500名をはじめ、外国軍全体で約3500名の戦死者を出したそうだが、この戦いについて中村氏は、「米軍にとって最大の悩みは、敵と味方の区別がつかないことである。」と書いている。

これは、イラクをはじめ中東諸国でも、ベトナムカンボジアのアジア地域でも同様であるようだ。そんな記述を何度も読んだ。

特にアフガニスタンでは、多数の民族や部族関係、さらに地縁、血縁関係が複雑で、敵味方の見分けがつかないと中村氏は書いている。

終章で中村氏は、「アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によってこの身が守られたことはなかった。防備は必ずしも武器によらない。

 1992年、ダルエヌール診療所が襲撃されたとき、『死んでも撃ち返すな』と、報復の応戦を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで私たちと事業を守った。戦場に身をさらした兵士なら、発砲しない方が勇気のいることを知っている。」と書いている。

中村氏が、2001年10月13日の衆議院特別委員会で、話をすることを求められた時に「自衛隊派遣は有害無益、飢餓状態の解消こそが最大の問題であります」と発言し、自衛隊アフガニスタン派遣に反対した理由がここにある。

イラク派遣のように水の補給や道路整備の為の派遣でも、外国軍隊が駐留する事にアフガンの人達の反感が強いからであると書いてある。

最後に中村氏は、「『天、共に在り』本書を貫くこの縦糸は、我々を根底から支える不動の事実である。やがて、自然から遊離するバベルの塔は倒れる。人も自然の一部である。それは人間内部にもあって生命の営みを律する厳然たる摂理であり、恵みである。科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざるを得ないだろう。

これが、30年間の現地活動を通して得た平凡な結論とメッセージである。」

中村氏はアフガニスタン人の銃撃に倒れたが、それでもアフガニスタンを愛し続けているだろうと、本書を読んで思った。

ご冥福をお祈りします。