「特攻勇士の像」除幕式、その2

この事業は「公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会」が実施しているもので、藤田幸生さんが会長です。私は藤田さんから依頼を受けてこの事業を進めました。

平成19年から始められ、高知県護国神社へ建立した像は、全国で22ヶ所目だそうです。

顕彰会のパンフレット表題には「特攻を記憶、戦没者を慰霊 史実を残し後世に伝える」

とあります。

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大東亜戦争の特攻作戦では8千余名の特攻隊員が、祖国のために命を捧げました。

その中で、高知県出身者は、陸軍23名、海軍52名合わせて75名が亡くなられております。
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2014年10月に、高知さんさんTVの鍋島さんが高知市の自由民権記念館で「最初の特攻、最後の特攻」という企画展を行っており、当時県会議員であった私はそれを見に行き、鍋島さんからお話を伺いました。鍋島さんによると、

航空特攻は昭和19年10月25日、フィリピンのレイテ島攻防戦における関行男海軍大尉を隊長とする「敷島隊」の特攻が最初とされるが、同じ日の3時間前に、「菊水隊」が同じ海域で特攻攻撃を実施しており、その隊員の一人が黒潮町大方出身の宮川一等飛行兵曹であり、また中村中学の同級生であり、同じ大方出身の野並一等飛行兵曹も10月29日に同じ海域に「初桜隊」の隊長として特攻攻撃をかけて戦死している。

また、最後の特攻は、昭和20年8月15日午前、天皇陛下玉音放送がある前に、命令により木更津基地から艦上攻撃機流星改」で出撃した越知町出身の中内理一等飛行兵曹、そしてもう1名は百里原基地から「彗星」艦爆で飛び立った土佐山田町出身の弘光政治一等飛行兵曹であり、それがこの企画展の題名の由来であると聞きました。
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中谷元衆議院議員も出席頂き、ご挨拶も頂きました。

尾﨑正直、山本有二衆議院議員、中西祐介、高野光二郎、梶原大介各参議院議員からは、秘書の方々の代理出席と祝電を頂きました。
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自衛隊高知地方協力本部長の堀川佳紀一等陸佐、第50普通科連隊長の山内和也一等陸佐にもご出席頂きました。
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出席者代表の玉串奉奠は「料亭濱長」の濱口実佐子女将にお願い致しました。
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私は、主催者挨拶の中で、海軍軍人であった父の影響で大学生になって以来、靖国神社へ何度も足を運び多くの特攻隊員の遺書を読み、また、霞ヶ浦予科練平和記念館、広島県江田島海軍兵学校記念館、山口県大津島の回天特攻記念館、鹿児島県の鹿屋基地にある海軍特攻記念館、知覧の特攻平和会館を訪れて多くの遺書を読み感動した事を話し、その中で、最初読んだ時には意味の理解出来なかった遺書を紹介させて頂きました。
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それは知覧で知った藤井一陸軍中尉が書いた、妻と3歳の長女と4ヶ月の次女の2人の娘に宛てた手紙でした。

藤井中尉はパイロットではなかったが、熊谷陸軍飛行学校の中隊長として飛行機乗りの教官をしていた。多くの若者を特攻へ送り出し、必ず自分も後で行くと話していたそうです。

24歳の妻福子は、自分と幼い子供をおいて特攻への志願を繰り返す夫へ、考え直して特攻志願を止めてくれるように何度も話したそうですが、藤井中尉の特攻出撃への意志が固いことを知り、昭和19年12月15日早朝に、2人の子供と共に荒川に身を投げて亡くなりました。

この遺書は、その日の夜妻と2人の子供の通夜の晩に書かれたものだそうです。

藤井中尉は、昭和20年5月28日、知覧から「第45振武隊」隊長として2式双発襲撃機(屠龍の改造型)で沖縄へ出撃して戦死、29歳でした。

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上の写真は、特攻勇士の像へ語りかける藤田幸生会長のご挨拶です。
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除幕式の様子は翌日の高知新聞にも掲載されました。

戦争には多くの悲劇があります。

戦争をなくす為、平和を維持する為に、この特攻勇士の像を建立しました。

像の左側には、私が書き、藤田さんに校正して頂いた副碑があります。以下にその全文を掲載します。

【特攻勇士の像 副碑

 日本の平和は大東亜戦争における310万人以上の人の犠牲の上にあることを忘れてはなりません。

その大東亜戦争末期、祖国存亡の危機にあたり、祖国防衛の為、多くの若人たちが、国を思い、家族を想い、愛する人を想い、故郷を想い、空に、海に、陸に、自らの命をもって、祖国の繁栄と平和を願いつつ、特別攻撃隊員として散華されました。

高知県においては、特攻戦没者顕彰会の記録によると75柱の方々が散華されております。

私達は、彼らの想いを永遠に語り継ぎ、その事実を忘れてはなりません。

その事実を顕彰する為、ここに「特攻勇士の像」を建立するものであります。

  令和5年4月30日

           高知県特攻戦没者慰霊顕彰会】