岸田内閣の防衛費増額予算

先日の参院予算委員会で、岸田総理は防衛整備計画(5年間)の物件費43兆円の予算案は、為替相場に関わらず増額する考えはないと答えた。

今後5年以内の防衛費は、主に米国からのF-35戦闘機、SM-3ブロックⅡミサイル、トマホークミサイルなどのFMS調達が多い。

財務省はこの防衛費は、FMS調達の場合、令和5年度は137円/ドル、令和6年度〜9年度は108円/ドルで計算するという。

現在の為替相場は約148円前後だ。このドル高円安では、FMS調達による米国等からの武器購入は数が減るので、数を揃えるとなると、国産品の調達にしわ寄せがくる。

来年度以降の為替相場の予想はつかないが、1ドル108円といえば、急速な円高ドル安が必要だが、そんな状況になるだろうか。

43兆円の範囲に収めるとなると、物件費の国産品の調達予定数が減ることになる。

そもそも国防は、必要な武器弾薬等の装備品の数を想定して予算化したものである。

それを予算がないから調達数を削る?

逆でしょう、予算が足りなくなれば国債を発行して装備品の必要数を確保すべきでしょう。

こんな事で、このくにが守れるのか。

ウクライナ戦争、イスラエルのガザ侵攻、中国と台湾との軍事的緊張、シリアの内戦の激化など、国際情勢が予断を許さないほど緊張しているなかで、岸田総理は何を考えているのか。財務省の言いなりである。

財務官僚は、国防を真剣に考えているとは思えない。

岸田総理はリーダーシップを発揮して、この国の防衛予算を考え直すべきである。

米海軍の空母打撃群がペルシャ湾に入った

先ほど、ヤフーニュースの毎日新聞の配信記事で「米中央軍は26日、米海軍空母「ドワイト・アイゼンハワー」を中心とする空母打撃群がホルムズ海峡を通過し、ペルシャ湾に入ったと発表した。」そして、

「空母にはミサイル巡洋艦1隻、ミサイル駆逐艦2隻、フランス海軍のフリゲート艦1隻が同行した。」との記事を読んだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/418a8ea4e3abeae648d0e3c797bdb5e38c7ba9f5

2019年6月、アメリカとイランの関係が悪化し、ペルシャ湾のホルムズ海峡近くのオマーン湾で13日、ノルウェー原油タンカーと日本のケミカルタンカーが何者かの攻撃を受けた。ケミカルタンカーは吸着爆雷攻撃を受け、ノルウェーのタンカーはミサイル攻撃を受けて炎上した。

 13日のタンカーへの攻撃は、安倍晋三首相が緊張を緩和しようとイランを訪問し、最高指導者のハメネイ師と会談するタイミングで起きた。

米国はこの攻撃を、イスラム革命防衛隊が行ったと断定した。

この後、ペルシャ湾から日本へのタンカー輸送が止まり、日本の原油価格は高騰し、ガソリン価格は170円を超えた。

今、イスラエルハマスとの戦闘が行われているが、レバノンにいるイランの支援を受ける武装勢力ヒズボライスラエルとの散発的な戦闘を行っている。

このイスラエルヒズボラの戦闘が激化すると、イランがホルムズ海峡を通る原油タンカーを攻撃する可能性が高い。

そうなると日本への原油タンカーの運行も止まる。

2019年当時、日本の原油の約85%がペルシャ湾から運ばれていた。日本政府の資料によると今年の9月現在では、その依存度は95%になっている。

サウジアラビアアラブ首長国連邦(UAE)の2カ国で、約37%ずつ、この他にクウェートカタールからの輸入だ。

いずれもペルシャ湾岸からホルムズ海峡を通って日本に運ばれる。

おそらく、現在でもペルシャ湾と日本の間には毎日20隻ほどのタンカーが往復しているはずだ。

この原油タンカーが止まれば、日本経済は大打撃を受ける。

マスコミはあまり報道しないが、私は、イスラエルガザ地区攻撃が始まって以来、その事態を一番心配している。

日本に打つ手はない。アメリカの軍事力に頼るのみだ。この空母打撃群の覇権はイランへの抑止力になる。

 

 

高知県知事、高知市長、宿毛市長選挙

高知県では、26日投開票の三つの選挙があり、自民党系が全て勝った。ただし、宿毛市長選挙は二人とも自民党系で争った。

私は全ての選挙で直接運動したわけではないが、それぞれの当選された皆様おめでとう御座います。

結果が出た順番にお知らせします。

県知事選挙は2期目を目指した自民党推薦の現職が、国政の野党相乗り候補で、元共産党県議を大差で破ったが、これは予想通りでした。

◎濱田省司 197,816票
 米田 稔      33,303票

宿毛市長選挙は現職の中平氏と元市議の岡崎氏の一騎打ち、どちらも元自民党市議の経歴を持ち、票が開くまで分からないと言われていたが、

現職が3選を果たした。
◎中平富弘 5,840票
 岡崎利久 4,814票

高知市長選挙は、6期目を目指す現職と、元自民党高知県議の桑名氏の戦い。

桑名氏は、私が後任の自民党高知県連幹事長をお願いした高知県議会の同僚でした。

当初は現職優勢と伝えられていたが、選挙戦終盤になり桑名氏が追い上げ、私が告示後にマスコミ関係者に聞いたところでは、どちらが勝ってもおかしくない接戦だとの事であった。

その通りの接戦となり、桑名氏が初当選を勝ち取った。
◎桑名龍吾 54,600票
 岡崎誠也 52,539票

東京の憂国忌で講演(動画を追加した)

11月25日(土) 午後2時から東京千代田区の星稜会館で開催された憂国忌で、講演の機会を与えていただきました。

この日は三島由紀夫、森田必勝両烈士の義挙から53年、400名近い参加者があったそうです。

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憲法改正について、50分間講演してほしいとの依頼を受けました。

国会審議がそれほど進んでいない状況ですが、これまでの自民党、国会での憲法9条の審議状況を話し、同時に日本の防衛力の強化をすべきだと話させて頂きました。

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講演の冒頭で、私が三島・森田義挙の翌年、大学1年の時、森田必勝さんが楯の会に行く前に所属していた日本学生同盟に入会し、2年後には全日本学生国防会議の第5代議長に就任し、初代議長の森田必勝さんの意思をついで活動してきた事を話させて頂きました。

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下のアドレスをタッチすると、日本桜チャンネルで私の講演が見えますので、是非ご覧下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=4j942ZDiCsM

また、この日は、私が講演するという事で、当時の日学同の仲間たちが沢山駆けつけてくれ、旧交を温める事が出来ました。

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台湾訪問 その2最終章

台湾訪問3日目は台湾南部にある、八田與一の造った烏山頭ダムを訪問した。

このダムは2019年に、自民党参議院議員の同期の皆さんと一緒に訪れて以来4年ぶりの訪問であった。

高鐵(新幹線)台北駅を8時21分発、嘉義駅 9時48分着、嘉儀駅からタクシーで約50分、10:40分頃に烏山頭ダム公園に着いた。下の写真が八田與一の像とご夫妻のお墓です。

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このダムの建設経緯について記すと、

八田は大正7年(1918年)、台湾総督府に命ぜられて台湾南部の嘉南平野の調査を行った。

嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。そこで八田は官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。

この事業は、総工費5,400万円、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、八田與一は完成に至るまで工事を指揮した。

また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。前回行った際に、新潟県と同じ面積の田畑が出来た、との説明を受けた。

この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。

その後、八田與一はフィリピンへ農業指導者として派遣される途中の昭和17年5月8日、長崎県五島列島沖で輸送船大洋丸が米国潜水艦の雷撃で撃沈され行方不明となったが、翌月の6月10日、山口県の萩沖で出漁中の漁船に発見された。衣服をつけて白骨化していたが、内ポケットの名刺入れに八田の名刺があった。

妻・外代樹(とよき)は2男6女を残し、9月1日烏山頭ダムの放水口に入水自殺した。

この日も沢山の台湾人の団体観光客が訪れていた。

大石県議はここでもiPhoneGoogle翻訳ソフトを使って台湾の人達との交流をしてました。(下の写真)

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そして偶然、八田與一の故郷である石川県金沢市金沢学院大学附属高校の高校生が、修学旅行でしょうか、大型バス数台で訪れレストランで昼飯を食べてました。

 

台湾のパイワン族訪問 その1

昭和17年7月から18年1月にかけてニューギニアポートモレスビー攻略作戦を戦ったのは、高知で編成された歩兵第144連隊を主力とし、広島県福山市の歩兵第44連隊、大阪で編成された独立工兵第15連隊であり、南海支隊と呼ばれた。

私はその南海支隊戦友遺族会の特別会員となっている。

お父さんが独工15連隊に所属して生還し、戦後は戦友・遺族会のお世話を続けた関係から、この遺族会の事務局長を務める和歌山県高野山の宮大工である辻本喜彦さんから連絡があり、この南海支隊に軍属として協力した台湾の高砂族の子供さん達と連絡を取れており、その家族に会いに行かないかとのお誘いがあり同行した。

高砂族は山岳民族で、裸足でニューギニアの山中を駆け回って日本軍に食料を運んだそうです。

メンバーは、辻本喜彦さん、高知県議の大石宗さん、福山市議の大田祐介さんと私の4人だ。

訪問先は、台湾南部の高雄の東にある屏東県來義(リイイーと発音する)という小さな村であった。

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下の写真が来義の村、

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高雄までは高鐵(台湾の新幹線)で約2時間、そこで在来線に乗り換えて1時間弱で潮州駅着、(下の写真は潮州駅前で大石県議と)

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そこからタクシーへ乗り、約20分で目的地の来義に着いた。午後12時40分になっていた。

ここでは王さん3姉妹が待っていてくれた。

辻本さんは28年ぶりの再会だ。(下の写真、前列左から2人目が辻本さんで、その両側の3人が王姉妹)

三女の王梅珠(日本名・野口梅子)さんの散髪屋だ。

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王姉妹の父上は林徳政さん、日本名は野口太吉さんで、この方が南海支隊の軍属としてポートモレスビー攻略作戦に従軍した。

その娘さんが、長女・王花菊(日本名・野口花子)、次女・王桂馬(日本名・野口キヌ)、

辻本さん達は、28年前にこの地で、戦没者慰霊祭を行ったそうで、その時の写真も見せていただいた。

大石県議はiPhoneの「Google翻訳」ソフトを使って会話をする。また、王さん姉妹もこれを自由に使って会話をする。

中国語(台湾は北京語が標準語、台湾語も使う)が出来なくても会話が出来る、便利なもんだ。

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下の2枚の写真は、この店に飾ってあったパイワン族の写真です。

高砂族パイワン族をはじめ13の部族の総称です。

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王さんの親戚が経営する、近くのレストランへ行き昼食をとる。
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昼食後は、近くにある日本が作った貯水池と用水路を案内してくれた。日本と同じ綺麗な水が流れ、小魚がたくさん泳いでいた。
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この貯水池と用水路は、大正7年から数年かけて日本が造ったものだそうです。このおかげで、耕作地と飲料水の確保、洪水対策に役立っているそうです。

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これが、台湾で今でも日本が尊敬されている理由です。それに加えて高砂族大東亜戦争後に入ってきた蒋介石の国民党軍から弾圧されているので、ことさら親日感情が強い。

王さん姉妹のうちの1人は、観光旅行で日本に5回も行ったと話してました。

次は、台湾南部に烏山頭ダムを作った八田與一さんについて書きます。

ジョン万次郎祭り 最終章

はじめに、ジョン万次郎祭りに、在ボストン日本国総領事館の鈴木光太郎総領事が出席して開会式で挨拶された事がぬかっていたので追記します。名刺交換をしました。

私がジョン万次郎を強く意識したのは中学2、3年の頃であった。60年近く前だ。

高知新聞に、土佐清水市のどこかの漁村で育った同い年の中学生が、ジョン万次郎に憧れて、手漕ぎの天馬船で太平洋に漕ぎ出して行方不明になった、という記事が載った。

その後、その中学生は行方不明のままだ。

当時の私もジョン万次郎に憧れていたので、その記事が強く印象に残った。

それからも、私の心にはジョン万次郎と海外への憧れが残り続けた。

十数年前から、土佐清水市とホィットフィールド船長の住んでいたフェアヘブンの町との交流が始まった事は高知新聞の報道で知り、一度はフェアヘブンへ行って行ってみたいという思いはあったが、この時期は県議会開催中であり、参議院議員になってからは臨時議会開催中であり参加出来なかった。

今回で交流会は18回目だそうだが、やっと念願がかなった。

ここで改めてジョン万次郎の軌跡を記すと、

ジョン万次郎は、1827(文政10)年、高知県土佐清水市中の浜に生まれた。

1841年、14歳の時に、土佐市宇佐の漁船で5名が漁に出た際にしけに遭って漂流し、鳥島へ漂着、

1841年6月27日、アメリカ合衆国捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長ウィリアム・ホイットフィールドによって救助された。

1843年5月7日、ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、マサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港した。それからフェアヘブンに住み、小学校に通った。

1851年(嘉永4年)沖縄の糸満市に上陸、日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。

その後、徳川幕府の通訳として、日米の交渉で活躍した。

明治維新は1868年、155年前です。

その後は明治政府の要職にはつかず、明治31年(1898年)、71歳で逝去した。

土佐清水市養老にある「ジョン万次郎記念館」には何度も通った。

外務大臣政務官になってから、英語の勉強をアメリカ人から教わる機会があり、その教材に、ジョン万次郎の5代目の中濱京さんが書いた「ジョン万次郎 日米両国の友好の原点」という本を「ジョン万次郎記念館」で見つけて英語の教本にした。

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中濱京さんは名古屋市在住で「土佐ジョン万会」名誉顧問となっている。

この本によると、6代目は知靖(ともやす)さんとなっている。京さんの息子さんでしょうか。

また、ホィットフィールド家は7代目がワイヤット(Wyatt)となっている。おそらく私がフェアヘブンであったスコットさんの息子さんであろう。

こうして、中濱家とホィットフィールド家の交流はこれからも続く。

来年は土佐清水市ルーニーさんご夫妻が来て、ジョン万次郎祭りが行われる予定なので、是非参加したいと思っている。