沖縄戦終決の日に思う

昭和20年(1945年)6月23日、沖縄の戦いが終わった。

沖縄戦、そして戦後の沖縄復興について、私が県会議員時代の平成22年(2010年)のこの日、14年前に 自民党高知県連は高知県庁前の交差点で、街頭演説会を行い、私は以下の演説をやりました。

当時、この演説を聞いていた、普段は自民党に対して辛口のマスコミ記者から珍しく褒められた。

気持ちは当時と全く変わっていないので再掲します。

【今日は沖縄県民にとって忘れられない日です。65年前の6月23日に沖縄戦は組織的な抵抗を終えた、忘れようとしても忘れられない日です。

 鳩山総理は、自民党政権下で14年間にわたって、やっと決着した普天間基地辺野古移転に対して「国外、最低でも県外」と沖縄県民に大きな期待を抱かせましたが、結局実現できず、沖縄県民に大きな失望を与えました。その最後になって「沖縄の米国海兵隊の抑止力について勉強不足であった」と驚くべき発言をいたしました。

 日本の総理が国防について無知であったことを認めたわけであります。

 米国の海兵隊は世界中で紛争が起こったときに、真っ先に駆けつける有事即応部隊であり、その編成は米国本土西部に展開する第1海兵遠征軍、東部に展開する第2海兵遠征軍、そして沖縄、ハワイに展開する第3海兵遠征群に分かれております。

 沖縄に展開する第3海兵遠征軍はキャンプ・コートニーに司令部があり、その傘下には陸上戦闘部隊である第3海兵師団がキャンプ・シャウブ、キャンプ・ハンセンに駐屯し、それらをサポートする第3海兵兵站群が牧港補給地区に司令部をおいております。そして第一海兵航空団があり、この航空団が普天間基地山口県岩国基地に展開しております。

 これに加えて、沖縄本島北部には広大な演習場があり、これらを総合的に運用しているのが沖縄海兵隊であり、常時は1万2千人から3千人がいるといわれております。

 これらの部隊が、アジアから中近東にかけて紛争が起こった時には、第31海兵遠征隊を編成し、長崎県佐世保基地にいる海軍の強襲揚陸艦エセックスを始めとする4隻の揚陸艦に乗って出動するのが米国の基本的な軍事戦略であります。

日本は長い間この米国の基本戦略を認めてきたわけであります。

しかし、一方で、アメリカの米軍再編成に際して、沖縄の基地負担の軽減をするのが日本政府の重要課題であると認識しております。

 沖縄の基地問題を考えるにあたっては、大東亜戦争における沖縄県民の大きな犠牲、その犠牲のもとに現在の日本があるということを忘れてはなりません。

大東亜戦争における沖縄の戦いは昭和20年3月26日に始まり、6月23日に組織的な抵抗が終わりました。

米軍は、沖縄上陸に際して、現在嘉手納基地から普天間基地にかけての西海岸から上陸を開始し、南北に進撃し、日本軍との間で激闘を繰り返しました。

 これに対して日本軍は、陸軍では牛島満中将を司令官とする第32軍、海軍は太田実少将を司令官とする沖縄方面根拠地隊を配置して抵抗を続けました。

普天間基地周辺では、高台にある嘉数台地に陣地を布陣して向え撃ち、ここが現在の普天間基地になっており、トーチカが残っています。

5月24日で首里城攻防戦は集結し、この日をもって沖縄戦は終わるはずでした。

しかし、米軍による日本本土上陸を遅らせるために、日本軍は南部の島尻地区への撤退を決め、摩文仁の丘の洞窟に司令部を移しました。そのために、現在の糸満市八重瀬町が戦場となりました。

沖縄戦では、9万4千人の軍人軍属が戦死し、また、沖縄県民の犠牲者は、10万人以上といわれています。

 沖縄県民の奮戦の様子は、海軍の沖縄方面根拠地隊司令官太田実少将の最後の電文により後世に残されています。太田司令官は、本来であるなら沖縄県民の実情は沖縄県知事が報告すべき事項であるが、知事は既に通信手段を失っており、また、陸軍の第32軍司令部もそのような余裕はないと思われるので自分が報告すると前置きし、軍は防衛戦に専念したために、沖縄県民のことに関しては、ほとんど顧みることができなかったにもかかわらず。自分が知る限りは県民の青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募し、共に戦ってくれた。残された老人や子供や女性は家と財産とを焼かれ、着の身着のままで避難している。しかも、若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身切り込み隊にすら申し出る者までいる。

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、ただひたすら日本人としてのご奉公を胸に抱きつつ、沖縄はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焼土と化そうとしている。と述べた上で、

沖縄県民かく戦へり、県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」の電報を打ち13日に自決されました。

この思いに応えるべく、自民党政権は1972年(昭和47年)佐藤政権下で沖縄の本土復帰が実現して以来、沖縄復興に対して様々な支援策を実施してまいりましたが、沖縄県の基地負担の削減は実現されておりません。

今こそ、国民の一人一人がこの問題について真摯に考え、沖縄県民の基地負担を軽減させることを考える時であります。】

 私は、高知県議になってからこれまで、二十数回沖縄を訪れている。

最近は沖縄空手、古武道の稽古に訪れるのだが、訪問するたびに、摩文仁の丘の慰霊碑、大田少将の自決された海軍司令部壕、八重瀬町にある高知県戦没者慰霊碑などを必ず訪れて哀悼の慰霊をする。

最近、沖縄に駐屯する陸上自衛隊第15旅団に牛島中将の遺書を掲げている事を問題にした左巻きのマスコミ報道があったが、何を馬鹿なことを言うのかと思った。

幸い木原防衛大臣が、この不当な圧力をはねつけてくれた。