硫黄島の戦い

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写真の本は平成17年(2005年)に発行された津本陽氏の硫黄島戦記である。
宿毛市立図書館でたまたま見つけた、津本氏の剣豪小説は何冊も読んでいたが、こんな本が出ていたことを全く知らなかった。
津本陽氏は居合道と、日本刀で竹や畳表の巻藁切りをする抜刀道をやる。
私も抜刀道を、大月町出身で東京在住の浜口さんから教わったことがある。浜口さんの師匠は戸山流抜刀道の中村泰三郎先生である。
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上の写真の本も宿毛市立図書館で見つけた。私は大学生の時に中村先生の試し斬り演武を見て感動した。中村先生は平成15年に91歳でお亡くなりになったことをこの本で知った。
津本氏の剣豪小説は、居合道、抜刀道の経験があるので斬り合いの場面の描写が実に迫力がある。この方は武士道精神を持った侍だなと尊敬している。
「名をこそ惜しめ」、「硫黄島魂の記録」「なぜ、戦えたのか。」の二つの副題が付いている。
読むのにしんどい本だった。図書館で見つけ、通販で中古本を手に入れた。
私は常に2〜3冊の本を同時に読んでおり、一冊を1日〜2日で読み終えるが、この本は読み終えるのに10日以上かかった。
読んでいて、あまりの切なさに読み続けることが出来なかった。
これまでも硫黄島の戦いに関する本は何冊も読んでいたが、この本は津本氏の凄まじい迫力で書かれている。
硫黄島の戦いの前に行われたペリリュー島の戦い(昭和19年11月24日玉砕)、1万人余の日本人兵士が戦死し、生きて生還したのは捕虜になった約200名の内数十名である。
この戦いで生き残った船坂弘氏の書かれた「ペリリュー島玉砕戦」(光人社NF文庫)も相当読むのにしんどい本であった。
この戦いで米国海兵隊と陸軍は戦死者6,526人、戦傷者3,278人、合計9,804人の戦死傷者に加えて、数千人の戦争神経症患者を出したとの記録がある。最近、テレビで米軍が撮影したその記録映画が放映され、その中に、精神をおかしくした米軍兵士が同僚に介護されている姿があった。
このペリリュー島の戦いの後、昭和20年2月19日から約1ヶ月半の戦いで米国海兵隊は硫黄島でさらに多くの犠牲者を出すことになった。
硫黄島の戦いでは、日本軍の戦死者は約2万人(幾つかの説があり特定されていない)、一方、米軍の戦死者は6,821人、戦傷者は21,865人、日本軍より被害は大きい。
津本氏の本に中に、米軍の輸送船ベイフィールドに乗船していた軍医の証言がある。「私はノルマンディ進撃作戦の時にも乗ってましたがね。しかしその当時はこの船の収容患者のわずか5%足らずが大きな外科手術を要したのみでしたよ。ところが今度は、大手術を要する患者は、実に90%にのぼるものと、断然私は信じています。私はこんなひどい負傷は見たことはありませんよ。」
しかも、彼我の戦力の違いを津本氏はこう分析している。「硫黄島における日本軍の戦力は、陸軍、栗林中将以下1万3千5百、海軍、市丸少将以下7千3百。大砲約百門、戦車23台、高射砲3百門。・・・
米軍は海兵隊3個師団7万5千名。陸海空の総員11万名。飛行機1千機、直接支援4百機、艦砲約8百門。この鉄量は、日本軍が無傷の状態で2個師団分であるのに対し、7千個師団分に相当した。」
これだけの戦力差がありながら、栗林兵団は徹底した洞窟戦で戦い、米軍に上記の犠牲を出させた。
その戦いも最後の時が来た。
日本軍は昭和20年3月17日栗林兵団長が、大本営参謀総長宛に訣別の電報をうち玉砕したが、その後も戦闘は継続され、組織的戦闘が終わった時点で約1万人の兵士が生き残っており、その後ほとんどが自決したと推測される。と書かれている。
そして、現在も硫黄島には1万2千名の英霊が眠っており、政府は海上自衛隊の滑走路を移転し、ご遺骨の収容作業を行っている。
これまでも何度かこのブログでペリリュー島の戦い、硫黄島の戦い、沖縄の戦いを書き、そして日本人のこの死力を尽くした戦いが、戦後米国が日本国憲法第9条を制定したことに繋がったと書いてきた。
長くなったが、最後に津本氏の本の「あとがき」を抜粋する。
南方熊楠は、人間の魂は五つか六つの部分に分かれ、その幾つかは現世に残ると記しているが、硫黄島に残った英霊のある部分は今も戦場に留まり、ある部分はたまに肉親の元を訪れておられるようである。
私は、肉食人種ではなく動物を捕殺するのを厭う日本人が、無理に連れてこられた戦場で、なぜ壮烈果敢な戦闘をおこなえのか、考えてみる。
日本人は知能が極めて発達しており、それは学業で教え込まれてそうなったものではなく、天性であると私は思っている。あらゆる作業に工夫をこらし、世界で珍重される新分野を開いてゆく、強力なエネルギーを備えている。日本人は、日常生活では勤勉な働き手であるか、すべての希望を絶たれ、絶海の孤島で死に向かい合うと、ただでは死ねないと思う。死に方にも工夫を凝らす。
それは越村敏夫氏の著書「硫黄島守備隊」にも詳記されている。平和を好む理性の発達した国民は、ただでは殺されないというエネルギーを祖先から伝えられ、体内に宿しているのだという事が、硫黄島の戦闘を探るうちに分かってきた。
我々が受け継いできた遺伝子は、現世に生き残るために、平和なときも乱世にも高度な働きを、状況に応じてあらわすのである。
不幸にして乱世も極まる時期に、燃えるように熱い地下陣地で命を絶たれ、肉弾戦で死力を尽くして亡くなられた英霊に、万斛の涙と感謝を捧げるものである。」
この日本精神は現在も連綿として受け継がれ、事ある時に現れる。