四国新幹線整備促進大会

22日(木)午前11時から東京プリンスホテルで、第3回四国新幹線整備促進期成会の東京大会が開催され、四国と岡山県から多くの皆様が出席された。

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主催者代表は四経連の千葉昭会長、自民党四国ブロック議員連盟新幹線プロジェクトチーム座長の山本有二衆議院議員、来賓として国土交通省副大臣大塚高司衆議院議員などが挨拶、そして四国四県知事は香川県の浜田知事のみが本人出席であった。

最後に中長期目標として、2037年リニア新幹線が新大阪に延伸される時期に、四国新幹線が開業できる事を目指す事を採択した。

午後からは国土交通省大塚副大臣自民党の二階幹事長、財務省の岡本薫明事務次官への要望活動を行う。

写真は大塚副大臣

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午後3時から自民党本部幹事長室で二階幹事長、林幹事長代理に要望活動(下の2枚の写真)

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3時45分から財務省の岡本薫明事務次官へ要望活動(下の写真)

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下の写真は左端が浜田香川県知事、中央が千葉会長、右端が岡本事務次官
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大東亜戦争、日本兵の戦い

山本七平氏の「私の中の日本軍」(文春文庫)を読み返している。

また昨日、NHKのドキュメンタリー番組の「ガダルカナル島の戦い」も見た。

日本兵は広大な中国大陸を、そしてマレー半島ビルマからインドに向かうインパール攻略作戦を、フィリピン、ニューギニアなどの戦いを、全て二本の足で歩いて戦ったのである。

しかも、馬と大砲を一緒に運んだのである。

毎日毎日一日40キロから60キロ歩くことの凄まじさを山本七平氏はこう書いている。

「今ではもう想像もできないであろうが、日本軍というのは、そのほぼ全員が二本の足で歩いていたのである。もちろん例外はある。しかし例外はあくまで例外であって、兵隊は文字通りの「歩兵」であった。」

「人間は熟睡したまま歩ける」といっても信じる人はいないであろうが、夢遊病者は熟睡したまま立派に歩いている。そして疲労の極の強行軍では、いわば人工的に一時的な夢遊病状態を現出する事は、少しも珍しくない。」

「確かに、日本軍は、人類史上最大にして最後の『歩兵集団』であったろう。歩くということを基礎にした軍隊が、東アジアの全地域に展開するということ自体が、いわば狂気の沙汰である。従って歩かされている全員が、心身ともに一種の病的な状態になっているのは当然である。」

「苦痛はこれだけでは済まなかった。厳密な意味での健康体のものは1人もいないと言って過言では無い。全員を多かれ少なかれ苦しめたのは『靴ずれ』であり、軍隊で言えば『靴傷』である。」

「普通の生活をしている人が突然こういう状態につき落とされれば、発狂しても不思議では無い。しかし実際はそうならない。これは強制収容所と同じであって、人間には、驚くべき適応力がある。しかし適応しているという事は、異常になっていることなのであって・・・」

山本氏は引用することが苦痛になるほど具体的に書いている。

その上十分な食料がないので兵隊は下痢に悩まされた。

ガダルカナル島は日本から5千数百キロ離れている。ハワイからオーストラリア東部海岸の間の補給を分断するために考えられた米豪分断作戦を行うためにガダルカナル島を必要としたのである。

補給線を考慮しないでこういう作戦を考えついた大本営参謀の頭を疑う。

ガダルカナル島へは先に日本軍が飛行場を作り、それを米軍に奪還された。そこで、再度奪還作戦を行ったのである。

日本軍はツルハシ、スコップ、モッコなど人力で滑走路を作ったが、米軍はブルドーザー等と鉄板であっという間に滑走路を完成させた。

戦い自体は日米どちらが勝ってもおかしくない互角の勝負であったが、この工業力の差は大き過ぎた。

よく昭和20年まで戦えたものだと思う。

このガダルカナル島の戦いも、島を占領後の補給作戦も極めて杜撰で、遠くフィリピンから食料、武器弾薬を輸送船で送ったが、制空権を取ることが出来ず、ほとんどの輸送船を途中で米軍の飛行機に撃沈されたのである。

ガダルカナル島は後に「餓島」と呼ばれ、将兵の6割以上が戦死ではなく餓死したと言われている。

そして、フィリピン・ルソン島の戦いも8割が餓死であると言われている。

また、ニューギニアの戦いも同様であった。

昭和17年7月から18年1月まで戦われた、ニューギニア東部のポートモレスビー攻略作戦は、高知県で編成された大本営直轄部隊である歩兵第144連隊を中心として、広島県福山市の歩兵第41連隊、大阪編成の独立工兵第15連隊からなる南海支隊が戦った。

そして、輸送を手伝った台湾人の軍属、高砂義勇隊も忘れてはならない存在だ。

この戦いは第144連隊だけで約3,330名、合計1万名以上の戦死者を出した。

島北東部のゴナ、バサブア海岸から全く道のないジャングルを、途中標高3千メートルのオーエンスタンレー山脈を越えてポートモレスビーが見える場所まで辿り着いたが、ガダルカナル島戦に集中するために撤退命令を受けて北東部海岸へ戻った。そして、食料、武器弾薬の補給もない中で北東部海岸のブナ、ギルワでほぼ全滅した。

この戦いで負傷しながらも、かろうじて生き延びた第144連隊の兵長であった西村幸吉さんは、戦後60歳を過ぎてから戦友との約束を果たすため、仕事も家庭も投げ打ってご遺骨の収容の為ニューギニアで26年間を過ごした。

私は西村幸吉さんが存命中に、南海支隊戦友遺族会の特別会員として、西村さんと共に二度東部ニューギニアを慰霊のために訪れ、戦いの様子を詳しく聞いた。

オーエンスタンレー山脈のココダへ向かう途中で断崖にぶつかり、馬も自転車も捨て、それからは山砲も人力で運んだと聞いた。

この戦いは南海支隊の堀井支隊長が、「兵力5千の南海支隊が峻険なオーエンスタンレー山脈を越えるには、3万8千からの物資輸送人員が新たに必要であると冷静に試算分析し、作戦の非現実性を強く主張したにもかかわらず、東京の大本営参謀である辻政信参謀がやって来て、「モレスビー攻略は陛下の御意思である」とウソの発言をして、勝手に押し付けた作戦である。

しかも、この辻政信は責任もとらずに戦争を生きながらえ、戦後は国会議員にまでなった。いかに国民に情報を知らされていないかの証しである。

こういう軍人が日本を破滅に導いたのである。

この戦いについてはこのブログに何度か書いたのでこれ以上書かない、

しかし、上記の地域での戦いに加えて、大本営は食料・武器弾薬などの補給を全く考えずに南方の島々に守備隊を送った。見殺しにしたとしか思えない。

日本軍がこの補給を考慮せず、食料は全て現地調達とした事について、山本七平氏は

「後方支援補給の軽視、同時にそれに従事する者への蔑視である。『輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち』とか、『輜重輸卒が兵隊ならば、電信柱に花がさく』といった嘲歌が平然と口にされた日露戦争時代から太平洋戦争が終わるまで、一貫して、日本の軍人には補給という概念が皆無だったとしか思えない。」と書いている。

私は国会議員になってから、防衛省の官僚にこの考え方があるのではないかと強く危惧し、何度もこの点を指摘している。

彼らは、限られた予算の中で正面装備を優先するので補給まで手が回らないと言い訳する。

自衛隊が遠くの海外へ出て行って、単独で戦うことは想定外であり、そんな事態を起こしてはならないと考えている。

しかし、日本が国際貢献を求められて、現実に自衛隊は海外へ派遣されている。

海外へ派遣された自衛隊に対する補給以前に、国内に配置されている自衛隊にも十分な食料、武器弾薬があるかどうか疑わしい。

補給を考えないで、日本から遥か彼方の島々へ日本軍を派遣し、戦線を拡大した事に対して、大東亜戦争後の最中から、あるいは捕虜収容所で、兵士から「大本営の気違いども」「バカ参謀」と言われていたと山本七平氏は書いているが、その通りだ。

この教訓を深く心に刻むべきだと思う。

 

 

敗戦記念日に思う

参議院議員になってからも、15日は高知市高知県護国神社に参拝していたが、今年は台風10号が直撃するので参拝を取り止めた。

昨夜、台風の進路を確認する為に時々テレビを見ていたが、15日午前0時40分からNHKで「戦没者は二度死ぬ」という番組が始まったので最後まで見た。この番組は何度か再放送されている。

テニアン島の戦いで家族と共に集団自決をして、偶々生き残った伊藤久夫さん(84歳、福島県在住)の話であった。

今朝の産経新聞1面にも伊藤さんが取り上げられていた。

産経新聞の記事によると、伊藤さん一家は昭和10年2月に製糖の国策会社である南洋興発(株)の社員としてテニアン島に移住した。その時生後100日の伊藤久夫さんも一緒であった。

テレビ番組では、伊藤さんは戦後何度もご遺骨の収容にテニアン島を訪れており、今年は自分が集団自決した洞窟を訪れて、子供のご遺骨も含めて収容する様子が語られていた。

伊藤さんの話では、この洞窟には3家族いたが、それぞれの家族が軍から自決用に渡されていた手榴弾で自決した。それでも死にきれなかった人がいて、半狂乱になった自分の母親がどこからか斧のような物を探してきて、父親が生き残った人々を撲殺した。

自分も頭を殴られて気絶し、妹2人は死んだが自分の両親も含めて3人は生き延びて米軍に保護されたという。

悲惨な話である。

テニアン島の戦い昭和19年1944年7月24日から8月1日までの9日間の戦いであった。

日本軍守備隊は海軍4110名、陸軍4000名で、その他に南洋興発の社員をはじめ約15,700人の民間人がいたようだ。

陸軍の緒方守備隊長は、民間人の中で3500名の義勇隊を編成したと大本営に連絡しているという。

米軍の戦死者は389名、戦傷者は1856 名とある。

日本人犠牲者の数は未だ確定されていない。8010名の戦死者という記録があるが、民間人の犠牲者数は確定されていない。

戦後約2300名の民間人が日本に帰国しているという記録があるので、約13000名が犠牲になったのであろうか。

先日の自民党戦没者遺骨帰還特命委員会の会合で、会長である尾辻参議院議員テニアン島に初めてご遺骨の収容に行った時に、海岸には沢山のご遺骨が放置されたままであった、という話をこのブログに書いた。

テニアン島にはまだ沢山のご遺骨が収容されずに残されているという。

私は自民党の会で、私が特別会員になっているニューギニアポートモレスビー攻略作戦の主力部隊である南海支隊戦友遺族会の活動を通して、米軍とオーストラリア軍にはご遺骨の収容に当たる専門部隊がある。日本には軍隊がないので厚生労働省の援護局がその任に当たっているが、ここは遺族の生活支援をする部署である。

自衛隊が米・豪の専門部隊と連絡調整をすべきだと発言した。自衛隊にもご遺骨の収容を専門にする部署を作る必要があると考えている。

大東亜戦争では約310万人の日本人がお亡くなりになり、そのうち海外での戦没者は約240万人、そのうち約112万人のご遺骨が帰国できていない。

収容可能な地域のご遺骨は全て帰還させるべきである。

国の命令で祖国防衛戦の犠牲になった日本人のご遺骨を、祖国に帰還させることは日本国の義務であると思う。

 

 

台風10号はどこだ?

午前8時30分の宿毛市中央7丁目、私の自宅前の写真だ。

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(上の写真は我が家の狭い庭、ゴーヤの棚は風に飛ばされなかった。)

午前7時のNHKのニュースで、宿毛湾港の近くから中継があり、リポーターが「1時間ほど前から雨も風も止んでます。」と話しており、テレビ画面は台風の中心部は足摺岬の40㎞沖を示していたが、暴風域の左端にあった。

それから雨も風もなく、今は陽がさして来た。

宿毛市は台風の目に入り、そのまま暴風域から抜けたのだろうか?

よさこい祭りと台風10号

11日の夕方、よさこい祭りで熱気渦巻く高知市へ行ってきた。

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上の写真は帯屋町の踊り風景、午後8時前だ、9時頃まで踊りは続く。

今夜は本踊りの最終日で、市内は大変な人出で活気があった。明日で終わるが、台風の前に終わってよかった。

日本の南方海上に大型台風10号があり、15日頃豊後水道を北上する予想だ。

台風は進行方向の右側が風雨が強い、私の故郷宿毛市にとって豊後水道を北上するコースは最悪だ。

十数年間このコースをたどる台風はなかったが、小さな台風でもこのコースを北上すると高知県西部は大きな被害が出た。今度は大型台風だ、大きな被害が出るかもしれない。

せっかくお盆休みに帰省した皆さんにとっても、盆踊りは中止になるであろうし最悪の盆休みとなりそうだ。

地元行事、知的障害者の納涼祭

9日(金)午後7時から宿毛市知的障害者施設育成園・授産園の納涼祭が行われたので久しぶりに出席した。

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(2枚の写真は入園者の踊り)

私は参議院議員になる前まで、この園を運営する西南福祉会の理事長をしていた。

2年ぶりの参加であったが、市民も沢山参加してくれた。40分ほどいて、その後別の行事へ移動したが、8時半頃からは花火も上がっていた、天気に恵まれてよかった。

翌日の10日(土)午後6時から自民党宿毛市支部総会、懇親会に参加した。

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例年より少し多い34名の参加者があった。

 

小泉進次郎さんおめでとう‼️

小泉進次郎さんが結婚する発表をしたと先ほど聞いた。相手の滝川クリステルという方がどこの誰だかわかりませんでしたが、東京オリンピックが決まった時の「お・も・て・な・し」で有名になった方だと聞いて思い出しました。

先月の参議院選挙の応援に行く途中の羽田空港の待合室で「中西さん」と声をかけられ、全国の選挙状況をお聞きしたのが7月12日のことでした。

私の参議院選挙の時には地元の宿毛市に来ていただき、小雨の中、千人近くの方が小泉進次郎さんの演説に聞き入り、大変盛り上がりました。

2年前の小泉進次郎さんの地元、横須賀市長選挙には私の出身大学である中央大学少林寺拳法部のOB会長である山守君の義兄の上地克明さんが市長選挙に出馬する事になり、山守君と2度応援に行き、小泉進次郎さんと一緒になりました。

 劣勢の予想をくつがえし、見事上地市長が誕生しました。いい思い出となりました。

重ねて、ご結婚おめでとうございます‼️