次期米インド太平洋軍司令官米上院軍事委員会公聴会で発言

3月23日、米海軍太平洋艦隊司令官アキリノ大将は、次期米インド太平洋軍司令官就任への指名承認の為、上院軍事委員会公聴会において証言を行った。
その内容については産経新聞等に詳しく報道された。

公聴会に先立ち上院軍事委員会がアキリノ大将に対し事前に提出した質問への回答の中で、日米同盟に関する回答について、注目する点についてお知らせします。

☆日米同盟は、インド太平洋の平和と繁栄の礎。

日本との軍事関係は今までで最も強固である。

自衛隊は、日米で相互運用可能な対空ミサイル防衛、制空、海洋安保、ISR能力(情報収集・監視・偵察能力)の向上に投資し続ける必要がある。

また、日米は引き続き共同訓練を実施し、頻繁に共同で活動する必要がある。

☆中国の弾道ミサイル巡航ミサイルに自国で対応できる能力を日本が確保することは、日米にとって死活的に重要。

極超音速兵器に対する識別・探知・防御能力の改善について共同で取り組む予定。

在日米軍再編は、沖縄以外の地域における米軍の分散配置と迅速な対応を可能とする。

平成の三四郎 古賀稔彦さんのご冥福をお祈りします

昨日、柔道家古賀稔彦さんのご逝去の報道を見て信じられない思いでいました。

お会いした事はありませんが、背負い投げの素晴らしさは目に焼き付いております。

心よりご冥福をお祈りします。

道家ではソウルオリンピックの金メダリスト、斉藤仁さんも若くして亡くなりました。調べたら54歳でした。

本当に残念です。

外交部会、外交調査会合同会議へ出席

23日(火)12時から、自民党の外交部会・外交調査会合同会議が開かれ外務省を代表して出席した。

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議題は

1、米韓外務、防衛閣僚会合(米韓「2+2」)について

2、米中外相会談について

3、国際的な人の往来に関する措置について

です。

ここでは日米2+2に関する中国外交部定例会見(3月17日)での、中国外交部・趙立堅報道官の発表について、出席議員から大きな批判が出た。

それは趙報道官が6点について強調した中で、

「第5に、日本は、中国の台頭と復興を阻止するという独りよがりの利益を満足させるために、他人に頼り顔色を伺うことを喜んで行い、米国の戦略的な従属国として、信義に違背し道義を踏みにじることを惜しまず、日中関係を破壊している。自ら災いの種を撒き、この地域全体の利益を売り渡している。このようなやり方は恥知らずであり、人心を得られるものではない。」との部分です。

外務省のアジア大洋州局長が中国大使館へ抗議したとの報告があったが、出席議員からは、それでは足りない、もっと強力な抗議をすべし、との声が相次ぎ、多くの賛同の声が上がった。

最近の私のブログは読者の皆様にとって物足りないと思います。

大臣政務官である間は、政府見解と違った自分の見解を述べる事は控えざるを得ません。

とりわけ、自民党の部会では発言することが出来ません。今日も、出席されていた高知県中谷元衆議院議員から「中西さん、忍の一字ですね」とねぎらいの言葉をいただきました。

委員会で外務大臣政務官として初答弁に立つ

本日(23日)午前10時から沖縄及び北方問題に関する特別委員会が開催され、初めて外務大臣政務官として答弁に立った。しかも、お二人の質問者があり、2度答弁させていただきました。

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(私の隣は沖縄北方も担当する河野太郎大臣)
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本来なら委員会の答弁は大臣が行う。この日は同時刻に政府開発援助(ODA)等に関する特別委員会も開催された為に、茂木外務大臣はそちらの委員会で答弁に立った為、沖縄及び北方問題に関する特別委員会は私が答弁に立つ事になった。

政務官に就任してからのこの半年間、他省庁の政務官は多くの方が答弁に立っている。しかし、外務省は政務官が答弁に立つ事が少ない。

私はこの5年間で外交防衛委員会予算委員会等で外務大臣政務官が答弁に立ったのを見た事がなかった。それだけに待ち焦がれた答弁でした。

いずれも北方領土に関する質問でした。

初めは北海道選出、元知事の自民党高橋はるみ議員、2度目が国民民主党川合孝典議員、

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私の左隣に座っているのが外務省欧州局参事官徳田修一氏、高知県出身で、尾崎正直前知事とは土佐高の同級生です。外務省のエースで心強い味方です。

 

日華議員懇談会総会に参加

22日(月)16時半から都内のホテルで、台湾との交流を進める超党派の国会議員で作った日華議員懇談会総会が開かれて出席した。
総会では会員総数292名になったことが報告された。また、古屋圭司会長の挨拶では、先日アンカレッジで開かれた米中外相会談について詳しく話されたが、古屋会長の見立てでは、予想通りの展開であったとの話であった。
台北駐日経済文化代表処の謝長延代表の挨拶の後、本日のサプライズゲストとして、なんと駐日米国大使館よりニコラス・ヒル主席公使が出席され、日本語で挨拶された。
日華議員懇談会始まって以来、初めての参加だそうです。

南モンゴル(中国・内モンゴル自治区)問題を考える勉強会に参加

3月16日(火)午後5時30分から衆議院第一議員会館の会議室で「南モンゴル問題を考える勉強会」が開かれて参加した。

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呼びかけ人は山田宏参議院議員上野宏史衆議院議員、講師は「モンゴル騎兵の現代史」の著者で、内モンゴル出身で、現在は日本へ帰化している、静岡大学教授楊海英先生ということで、是非、講演を聞きたくて参加しました。

写真前列左端が楊海英先生、右隣が山田宏参議院議員上野宏史衆議院議員。後ろの列は日本在住の内モンゴル出身の人達で、日本に1万4千人の人達が住んでいるそうです。

遅い時間にも関わらず、沢山の議員が参加しました。

講演は、ヤルタ協定によって外モンゴル内モンゴルに分割された歴史から、文化大革命において多くのモンゴル人が犠牲となった話、モンゴル人学者の説として30万人殺害という話があった。

昭和7年(1932年)満州国が成立した時に、その3分の1はモンゴル人地域であった。

満洲国は多くの小学校から大学までを設立し(335校、同じ頃、中華民国支配下では、学校1つのみ。)教育に力を入れた。

それが、文化大革命においては逆に恨まれる原因になったとの話しであった。

私は、この文化大革命におけるモンゴル人の犠牲者については、楊海英先生の書かれた「墓標なき草原」(岩波現代文庫上下)を読み終えたばかりであったが、この本は中国の公式発表と犠牲者の生の声を書いているが、読み進めるのが辛くなるような残虐な事件である。
文化大革命の当時、内モンゴル自治区ではモンゴル人人口が約140万人に対し、漢人1200万人、現在ではこの差がもっと大きくなっており、選挙では全くモンゴル人は勝てないとの話であった。

新疆ウイグル自治区でも同様な事が起こっている。

また、昨年夏から始まった、内モンゴルでの①モンゴル語の禁止、②強制移住、③モンゴル人女性に対する組織的性犯罪、など多くの弾圧が行われている事が紹介された。

これに対して、2人の若い女性が抗議の自殺を行った事を含めて9人の犠牲者、8千人から1万人の逮捕・行方不明者がいると話された。

これらの抗議行動は、日本ではあまり報道されていないようで、私は初めて知りました。

今後は議員連盟を設立して、日本在住の内モンゴル出身者の支援を行う予定だとの事でした。

東日本大震災十周年追悼式

午後2時30分から、国立劇場において、政府主催の東日本大震災十周年追悼式が行われた。

コロナ禍の為、出席者は二百数十名に制限された。その為、参議院では議員会館一階の講堂でインターネット中継で参加した。

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初めに、司会者から東日本大震災で犠牲になられた方々は、関連死を含めて2万2千2百名にのぼるとの話があった。

式典は午後2時46分に黙祷、菅総理の追悼の辞の後(下の写真)、

天皇陛下のお言葉、衆参議院議長、最高裁長官の追悼の辞が続いた。

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その後、岩手県(佐藤しょうじさん)、宮城県(荒川航さん)、福島県(斎藤誠さん)のご遺族の代表と、被災者の代表(近江智春さん)の4名が追悼の辞を述べた。

当時、高知県議会議員であった私は、4ヶ月後の7月13日から3日間かけて、仙台に支店を持っていた高知県の建設会社社長の案内で、車で津波被害にあった宮城県岩手県の海岸部を視察した。それが下の3枚の写真だ。

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上の2枚は宮城県女川町、最後の写真は雄勝町の写真です。

女川町に入った時の衝撃は未だに鮮明に覚えている。

1枚目の写真の後方に写っている3階建ての建物は、福祉施設でこの高台の庭まで津波がきたという事で、テレビで何度も紹介された。