高知県遺族会フィリピン慰霊巡拝団に参加して、その2

1月29日午前8時、ソラノのぼろホテルを出発、今日は昨日よりまだ険しい山道を行く、トンネルが一つもない。キラン峠、アンブクラオダムを経て標高1500mのバギオに12時30分に着いた。ご遺族の何人かが車酔いで気の毒であった。
(山道の写真だが解るかな)
バギオはルソン島北部の避暑地であり、年中25度程度の気温だそうだ。大統領はじめ政治家や経済人が別荘を持っている都市である。ガイドさんの話では、最近は韓国人向けの英語学校が多く、韓国人にとって米国本土へ英語の勉強で留学するより安くつくので、韓国人学生が非常に多くなったということであった。
この近くのトリニダットで慰霊祭が行われる予定なので、バギオでトイレ休憩をした後でトリニダットへ向かったが、車が多く大渋滞、9年前にはこんなに車が多くなく15分ほどで着いたと思ったが、今回は1時間かかった。
前回訪れた時には、ここの慰霊碑は日本人のおばあちゃんが守ってくれていた。その方は昨年お亡くなりになり、今はお孫さんが守ってくれている。
ここでの慰霊祭は遺児の足達綾子さん(香南市)と仁淀川町の竹本嗣夫さん。
(竹本さんと記念撮影)
竹本さんのお父さんは6人の子供を残して昭和19年に徴兵され、陸軍航空隊の整備士をされていたそうだ。なんとも残酷な徴兵である。
私の祖父は二度にわたって徴兵されており、二度目が支那事変で昭和12年8月の第二次上海事変に出征している。
叔父から聞いた話であるが、祖父が出征した際に祖母の弟が、14歳の私の父を筆頭に6人の子供が寝ている姿を見て、「兄貴が戦死したら、姉さんは6人の子供を抱えてどうするんだ。」と嘆いたという話を聞いていた。
私の祖父は1年後の昭和13年8月に無事帰還し、さらに3人の子供ができて父は9人兄弟となった。
竹本さんの父上は昭和20年に戦死、母上は6人の子供を抱えて戦後大変な苦労をされたと思う。
竹本さんは初めてフィリピンに来た、追悼の言葉を読む竹本さんは体全体が震えていた。
お母さんの戦後のご苦労を、父に語りかける竹本さんの追悼の言葉を、私は涙を流しながら聞いた。
この旅でご一緒して、竹本さんと私とが4年前に接点があったことを竹本さんから聞かされるまで全く気付かなかった。
4年前にブラジル移民100周年記念行事に参加のために、私はブラジルを訪れた。
その際パラナ州高知県人会の記念祝賀会で池川町出身の移民家族と出会い、何枚か写真を撮った。そして、その写真を池川町に住むこの家族の親戚に必ず送ると約束して住所を書いてもらった。
その写真を送った方が竹本嗣夫さんであった。
その際に竹本さんから丁重なお礼の手紙と電話をいただいたのだが、その竹本さんが慰霊巡拝団にいるとは考えてもいなかった。
竹本さんは、私が写真を送って以来、議会活動などで新聞やテレビに私が出る度に注目してくれていたそうだ。
そして、この慰霊団の名簿で私が参加することを知り、どこで中西さんに話しかけようか考えていたと聞かされた。
それが偶然行きの飛行機で隣同士になり、話を聞いた私は驚いた。
皆さんは慰霊祭が終わって、世話役の女性のお宅でお茶をごちそうになったが、私は風邪気味で体調最悪、失礼してバスの中で休んだ。
16時30分頃、バギオのプリンスプラザホテル着、バギオも繁華な街になっておりホテルも多い。
9年前にはホテルの部屋は良かったが、お湯が出なくて困った人が多かったが、今回のホテルはお湯も出るし、日本並みのホテルで安心した。
9年前とは大違いだ。何人かは街の散策に出たが、私は風邪薬をもらって休んだ。

1月30日午前8時バギオのホテル発、リンガエン湾に向かって降りて行くのでしばらくは山道が続く。
11時22分リンガエン湾に到着、下に降りるとさすがに暑い。
前回は砂浜の一角で炎天下で慰霊祭を行ったが、今回は「海の家」を借りてそこで慰霊祭を行った。
ここでは6名の遺族が追悼の言葉を読んだ。
その中でいの町の黒石利武さんの話に心を打たれた。
黒石さんは20歳も上の兄上が船乗りとして徴用され、乗り組んでいた輸送船が撃沈されて亡くなったそうだ。
陸軍軍属と話されていたので、陸軍船舶部隊にいたのであろうか。
黒石さんは戦後、10歳の頃に遊び仲間で話していて、兄が戦争で亡くなった話をしたら、10歳上の人が「それは犬死だ」と言ったので殴りかかったが、かなうはずもなく、顔がどす黒くなるほど殴られた。
その顔で帰ったら、母は気付いていたのであろうが、なんで殴られたのかも一切聞かなかった。
その母の、戦死した兄を思う言葉に胸を打たれ涙が流れた。
黒石さんも初のフィリピン慰霊、フィリピン戦の歴史を知らなかったようで、私が食事の時などにフィリピンの戦いの様子を話すと、「中西さん、もっと聞かせてくれ」と言って、いつも私の近くにいた。
大東亜戦争の全般的な流れを知るには百田尚樹氏の「永遠のゼロ」という本が良いと薦めると、是非読みたいという。たまたま日程の最後の方で、坂本団長の息子さんが車の中で読んでいるのに私が気が付いて本を見せてもらい、帰ったら買うと張り切っていた。
(写真は慰霊祭が終わり花をリンガエンの海に流す)
海岸近くのレストランで昼食を取り、マニラへ向かう。
途中で旧軍の飛行場の一つ、マバラカット飛行場跡地の一角に神風特別攻撃隊の記念碑が十数年前にできており、前回は行く機会がなかったが、今回はよることができた。
昭和19年11月、この飛行場からレイテ沖の米軍艦船に向けて初めての海軍航空隊による特攻作戦が開始された。
関行男大尉率いる敷島隊をはじめ、大和隊、朝日隊、山桜隊の6機編隊24機のゼロ戦が飛び立った飛行場跡地である。
今は高速道のすぐ傍に小さな公園を作っていた。
(特攻の碑の前で)
18時55分マニラのレストランで夕食を取り、ホテルに帰った。