東京宿毛会に参加

27日(土)午後6時から、霞が関法曹会館で東京宿毛会の懇親会があり出席した。多くの参加者で会場が狭く感じた。

宿毛市からも、中平富弘市長、岡崎利久市議会議長、立田雅弘宿毛商工会議所会頭、秋沢宿毛観光協会会長、沢田雄一梓会会長など数名が参加した。

この会は、戦後、吉田茂内閣が出来た時、吉田茂首相のご両親が(父は竹内綱、元国会議員)宿毛出身、副総理が宿毛出身の林譲治先生で、林譲治先生を応援するために東京在住の宿毛出身者が集まって開いたのが始まりだそうだ。

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(上の写真、左端が中平富弘宿毛市長、その隣は廣畑さん、佐竹さん)

明治維新以後、多くの宿毛出身者が東京へ出ており、その方達の子孫が中心であったそうだ。

現在の会長は宿毛の殿様であった伊賀朗氏さんだ。f:id:nakanishi-satoshi:20190428044727j:image

(上の写真、左端は宿毛高校東京会の高木三千年会長、その隣が私の弟・哲也、その隣は伊賀会長)
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(上の写真、左が宿毛の振興に取り組んで頂いている岡添さん、右は宿毛から参加の西村さん。)

今回も、維新の志士・岩村通俊の子孫や、出版社の富山房の創始者坂本嘉治馬の子孫の方と話をする事が出来た。

また、岩村通俊の息子である岩村通世は昭和10年代に司法大臣を務めたが、その時の縁でこの会場を使い続けているという事を、子孫の方から聞いた。

また、岩村通俊は明治10年西南戦争直後に鹿児島県令(知事)となり赴任した。

当時は西南戦争で賊軍とされた西郷隆盛先生をはじめ、多くの戦死者のご遺体が放置されたままであったのを、「今は賊軍と呼ばれても、後世必ず正当に評価される」と政府軍を説得して、ご遺体を丁重にお寺に埋葬した事が評価され、南洲墓地にその業績を讃える高さ4メートルほどの大きな石碑が建っている。

今回の会で岩村さんのご子孫の女性から、それは岩村通俊が県令として赴任するにあたり、大久保利通から戦死者の埋葬を密かに頼まれていたから出来た事だとの話を聞いた。

文書としては何の記録も残っていないが、岩村家に代々語り伝えられている話だそうだ。

初めて聞いたが、西郷隆盛と大久保利道の交友関係を考えれば納得のいく話だ。