22日(土) 松山市から高知市へバスで移動、2時間半ほどかかるが快適なバス旅だ。
高知県自民党県連青年局が、総会前の午後3時から高知県護国神社にお参りするので参加させてもらった。
参拝後に記念撮影、別役宮司さんから元号・令和の話、天皇継承制度のお話を聞かせて頂いた。
午後4時からは、高知市内の高知大神宮で、昨年10月28日「海の日」の式典に天皇皇后両陛下を高知へお迎えした際に奉祝歓迎委員会を作って活動したが、その解散のための総会に参加した。
尾崎正直高知県知事の祝辞、山本有二衆議院議員と共に祝辞の機会を与えて頂きました。
私は挨拶の中で、平成14年に天皇皇后両陛下が高知国体に来られた時に高知県庁訪問があり、県庁玄関で最前列に立ってお出迎えした事、昨年の海の日の前日に行われた、城西館での懇談会の様子などを話した。
何よりも、大東亜戦争の激戦地である沖縄、サイパン島、パラオ諸島のペリリュー島を戦没者慰霊のために訪問されたことに感銘を受けた。
私は、とりわけペリリュー島を訪問され、戦没者慰霊碑に深く頭を下げられ、遥かに見えるアンガウル島に向かっても頭を下げられたお姿が印象に残っている事、ペリリュー島の戦いを簡単に話をさせていただいた。
この戦いは昭和19年9月15日に始まり11月27日まで約2ヶ月以上続いた。
島を守ったのは中川州男大佐率いる陸軍水戸第二歩兵連隊、歩兵第15連隊の第3大隊を中心とする約1万1千名、ほとんどが戦死された。
これに対して米軍は第1海兵師団、陸軍第81師団などの約5万名で攻めた。
米軍の猛烈な空爆と艦砲射撃で、日本兵は生き残っていないのではないかと推測し、リュバータス第1海兵師団長は、この島を3日で落とすと豪語した。
しかし、日本軍の猛烈な反撃に会い、ガダルカナル、マキン、タラワ、グァム、サイパンと南太平洋の島々で連戦連勝を重ねて来た米国第1海兵師団、その先陣を切った第1海兵連隊は、上陸後1週間で半数以上が死傷して全滅判定を受けた。
1ヶ月半後の10月末には第1海兵師団も全滅判定を受けて師団長は解任、陸軍第81師団に交代させられた。
その数ヶ月後、師団長を解任されていたリュバータス少将は病死した。
この戦いは、米国の戦史に、援軍が来る可能性もない、勝てる可能性も全くない戦いで、降伏することもなく最後の一兵まで戦い抜く軍隊があるのか、と書かれている。
私はこの戦いの後、硫黄島、沖縄戦と続いた日本軍の猛烈な抵抗を受け、米国は日本民族に二度と軍隊を持たせないという強い意思のもと、憲法9条2項を作ったと考えている。
天皇皇后両陛下は、ペリリュー島の戦いを思い、十分なホテルがないために、大型巡視船に宿泊されて、搭載ヘリで島に渡るというご不便をご承知の上で、あえて慰霊訪問された事に大変な感銘を受けた。
午後6時からは青年局の総会、懇親会に参加した。
午後6時54分高知駅発の列車で宿毛の自宅へ、10時15分東宿毛駅着、護国神社参拝の前には高知新聞記者さんの取材も入り、忙しい一日でした。