30日(日)午後5時から、弘田兼一県議の自民党室戸支部総会へ参加した。
中谷元衆議院議員も参加した。宿毛の自宅から室戸まで、車で5時間かかる。
会場は「花月」元料亭だ、県議時代は委員会調査で毎年室戸を訪れ、ここで昼飯を食べた、料理は美味しい。
久しぶりにキンメダイや鯨などの、ご馳走をいただきました。
この日は香南市へ戻り、黒潮ホテルの温泉に浸かって疲れを癒した。
翌日は建設会社やビルメンの会社などを訪問した。
県内の大手建設会社で、高知県発注の建設工事の発注状況などを聞いたが、大きな工事はまだ発注が始まったばかりだ。
県の土木部へ行き副部長から状況を聞いた。
県の普通建設事業費は1千億円近くに増額されている、土木部だけで約7百億円だ、順次発注する作業を進めている。
新社屋に移った福留開発株式会社で、大場智公社長と話していると応接室に中谷元衆議院議員の「満福留魂」と書かれた書が飾ってあった。
(上の写真が大場社長)
「満」は満州の意味で、先代の創業者である福留福太郎氏は、地元の満州開拓団数十人(60人との記録を見た)のリーダーとして移住し、戦後は苦労して満州から全員無事に引き上げた。
そして、戦後は中国残留孤児のお世話に尽力されたそうだ。その後、福留氏は私財4億円を投じて中国帰国者の定着センターを作った事を知った。
中谷代議士は、奥様のお祖父さんである元農協全国中央会会長であった藤田三郎氏が、同じく満州開拓団のリーダーとして移住して、福留福太郎氏と同じ立場にあった関係で、戦後、福留氏も藤田氏も中国残留孤児の帰国問題に取り組んだとの事であった。
その関係で、中谷代議士は国会議員になった当初から中国残留孤児の問題に熱心に取り組んだとの事であった。
私は県議時代に、高知県の中国残留孤児二世の日本語学習支援等の要望書を受けた。
その時に、中谷代議士がこの問題に熱心に取り組んでおり、当時はこういう背景があった事を知らなかった。
たまたまその日の晩は、中谷代議士の義弟である桑名龍吾県議が、高知県議会議長となったお祝いで個人的に飲む事になっており、この話で盛り上がった。
大場社長に私の思いを話させていただいた。
私は満州国を作った日本陸軍の石原莞爾将軍を尊敬しており、石原将軍は本当に満州国を五族協和の国にしようとする理想を持っていた。
軍人の石原莞爾将軍、大蔵官僚であり、満州国官僚として派遣された古海忠之氏など、その理想に燃えた人達がいたからこそ、満州国は短期間で素晴らしい実績を上げた。
しかし、日本民族は特別優秀であるとの認識を持ち、中国、蒙古、朝鮮などの民族を見下してその理想をぶち壊したのも日本人であった。
その陸軍の代表は東條英機である。
この時の対立を引きずったまま石原莞爾将軍は東條英機と対立して退役に追い込まれた。
また、満州国最後の実質的な首相であった古海忠之氏は、戦後も昭和38年(1963年)3月まで中国に抑留され、帰国されてから「忘れ得ぬ満州国」と題する回想記を書いた。
私はこの本を読んで感動し、その内容は数年前にこのブログに書いた。
老人と女性と子供ばかりの日本人引き上げ者の集団を、戦車とトラックなどで襲い、殺した葛根廟の虐殺事件。
それを見て憤慨し、8月19日武装解除していた陸軍練習機でソ連軍へ特攻攻撃をかけた11機の特攻隊がいた事を話した。
この時に、新婚の新妻を後部座席に乗せて突入した軍人が2人いて、その1人が谷藤徹夫陸軍少尉(22歳)であり、その事を書いた本が「妻と飛んだ特攻兵」である。
妻は朝子(24歳)、数ヶ月前に結婚式を挙げた。
以前、このブログに書いたが、その時の辞世の歌がある。
国敗れて山河なし、生きて甲斐なき命なら
死して護国の鬼たらん
特攻機は全機行方不明、戦果は確認されていない。
日本は明治維新以降、明治27年(1894年)に日清戦争を、その10年後の明治37年(1904年)には日露戦争を、明治43年(1910年)には日韓併合をやった。
そして昭和7 年(1932年)には満州国を作った。
全てソ連ロシアの南下政策に対抗する政策であった。
明治維新以後の日本は政治家も軍人も、ロシアが南下して日本を侵略する。その緩衝地帯として朝鮮半島と満州国が必要と考えたのである。
それらの政策は昭和20年8月の大東亜戦争の敗戦によって全て失敗に終わった。
それが正しかったかどうかは歴史が評価するであろうが、当時の政治家と軍人は、日本の独立を守るためにはそれしかないと考えた。
戦後74年経ったが、中国と韓国との間では未だこの問題は解決していない。
最近も日韓関係は悪化しており、7月1日に日本政府が半導体などの製造に必要な材料3品目の韓国向け輸出規制を強化する事を決定した事に、韓国政府が反発している。
国交断絶を視野に入れても良い、堂々と日本国の国益を主張すべきである。
歴史的に我が国が中国と朝鮮半島に関わると、ことごとく失敗する、関わりを避けるのが一番だ。