徳之島の星、徳三宝

6月30日(火)、鹿児島空港から奄美大島への飛行機は無事に離陸、奄美空港へ迎えに来てくれたのは私の妻のふた従兄の息子さんの早川陽一郎さん、彼の車で奄美大島の南端、古仁屋へ向かった。

この日はまだ晴れていたが、翌日は大雨である。陽一郎さんがあちこち回りながら空港まで送ってくれたのだが、途中で雨が強くなったので空港へ直行した。

空港で見つけたのが下の写真の本である。

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私は柔道の経験はないが、大学生時代にアルバイト先で読んだ新聞、東京スポーツに連載されていた「柔道三国志」に感銘してその後、単行本も買った。

その主人公の1人が徳之島出身の徳三宝である。

この本は徳三宝の甥にあたる(妹の長男)指宿英造氏(医師)によって書かれた。

この本の前書きにはこう書かれている、徳三宝は明治二十年生まれ、「明治三十四年、本土の鹿児島にのり、中学時代には柔剣道に励み、間もなく柔道に転じ、十九歳のとき上京して講道館に入門し、生まれつきの負けん気で猛練習をつみ、明治三十九年、入門以来わずか四年たらずで講道館四段という異例の昇段を果たした。

しかし、若気の至りか、粗暴な振る舞いがあったとして破門の憂き目にあった。

その後、感ずるところがあってか、四国の山窩で三年間の難行苦行を経て、大正四年に六年ぶりで講道館への復帰が叶った。時に、三宝は三十歳であった。」

その後、昭和20年3月10日の東京大空襲の際、夫婦で川に逃れ、体の大きな徳三宝は避難民にすがられて、夫婦で溺死したと言われている。59歳。

当時、身長176センチ、82キロは相当な大男であった。

亡くなるまでの30年間、柔道一本の生活を送り、当時から講道館史上最強の男ではなかったかと言われている。

講道館を破門になった間、四国徳島の祖谷地方に住んでいたらしいが、ここの山窩には空手のような格闘技が伝わり、修行していたそうだ。

その事は、「柔道三国志」には書かれていたのだろうが、忘れていて詳しいことは初めて知った。

大変面白い本でした。

今年になり、外務省の女性職員が仕事の説明に来た際、徳という姓なので、私が「徳さんか、徳三宝だ」と言ったら、「先生は徳三宝をご存知なのですか?」というので、「え、もしかして親戚?」と言ったら、「ええ、父が徳三宝の兄弟の孫です」との事で驚いた、お父さんは柔道はやっていなかったそうだ。