司馬遼太郎の「アメリカ素描」を読んで

司馬遼太郎氏の「アメリカ素描」を久しぶりに再読して、私がアメリカの歴史を知らないことに気がついた。

司馬遼太郎氏の本は、「燃えよ剣」、「龍馬がゆく」、「坂の上の雲」、「飛ぶが如く」など何冊か読んだ時期があった。しかし、明治以後を否定的に捉える司馬史観には賛成できない。

f:id:nakanishi-satoshi:20231223182035j:image

アメリカ素描」は、10月にアメリカ東部のボストン、フェアヘブン、ニューヨークを旅行して以来、アメリカ独立当時の歴史を知らないことに気がつき、再度読み始めたものであった。

司馬遼太郎氏の「アメリカ素描」(新潮文庫)文庫本の初版は平成元年(1989年)の4月だが、いつ読んだのか、少なくとも2008年のリーマンショック以前に読んだ記憶がある。

その後、図書館から借りてきて「一冊でわかるアメリカの歴史」(関眞興、河出書房新社)、「南北戦争」(小川寛大、中央公論新社)を読んだが、アメリカの独立戦争南北戦争について書く前に、「アメリカ素描」の最後の方で、当時の米国のウォール街で主流になっていた金融商品取引について、司馬氏が懸念する記述があり、私も同じ思いでいたが、それは2008年9月にリーマンショックとなって現実になったので、それについて記し、アメリカ独立戦争南北戦争については日を改めて書きます。

その436ページから以下の記述がある。【 】内はその転載です。

【東大経済学部教授の土屋守章氏が「ハーバード・ビジネス・スクールにて」(中公新書)という充実した内容の本を書いている。

同書によると、ハーバード・ビジネス・スクールには毎年、約800人の入学者がある。これに対する教師は全体で約200人(正教授約80、助教授約40、講師約30など)で「大企業並みの大所帯」だという。学生はわずか2年間で千冊の本を読む。…無論それは読むだけでは済まない。学生はその「ケース」を頭に入れ、その局面に身を置き、教師の挑発を受けつつ激しい討議を行うのである。

「西洋実学の実たる所以」

と福沢がいったことをそのまま生きた機関にしたのが、この存在らしい。… .

 野村証券のニューヨーク駐在の役員である寺沢芳男氏も、古い時期に、この機関に留学した人である。「ぜひ寺沢さんに会え」

と、日本を出るとき、友人からいわれた。寺沢さんはウォール街にあるニューヨーク証券取引所での日本人としてただ一人の会員だという。

「僕には猫に小判だよ」

と、尻込みしたが、友人の方で寺沢さんに連絡してしまっていた。…

 寺沢氏は野村証券の専務であると同時に米国の現地法人であるノムラ・セキュリティー・インターナショナルの会長でもある。… .

(野村氏は)いきなり、ニューヨークを証券の面からみた説明にとりかかってくれた。

「日本の証券界とは大きなちがいがあります」

「日本では、昔から投資と投機とを分けて考えます。伝統的に、投資を正しいとし、投機をいかがわしいとするのです」

 私のような門外漢でもそう考える。資本主義の正道は投資であり、投機はバクチではあるまいか。

アメリカでは、投資的な証券市場参加者は10%ぐらいしかいません。あとの90%は、投機家です」

それがウォール街だという。….

先物売買のことをフューチャー(future)というんです。投機とは主としてフューチャーをやることなんです」

と寺沢氏はいった。すごいはなしである。しかも、ウォール街での先物買いは決して危険ではないという。

「投機家たちは危険でないシステムをつくるのです。投機家である会社(銀行・証券会社・保険会社)は、先物に数学的な体系を与える能力を持った頭脳を、年俸何億円かで契約します。その専門家に決してソンをしないシステムを作ってもらい、コンピューターで運用するんです」

 そういう頭脳はハーバード・ビジネス・スクールのようなところで養成される、と寺沢さんはいう。私のような素朴な日本人から見れば、この大学院は実に危険なことを教えていることになる。…

 以下はウォール街知識の初歩だろうが、寺沢さんによると、アメリカでは銀行が証券会社の要素を持ち、証券会社が銀行の要素を持っているという。また保険会社にとっては客から金を集めるのは当然の業務ながらそれは半分の性格で、あとの半分は投機をやる。

 投機。むろん投資ではない。三者とも投機をするためにこそウォール街にオフィスを置いているのである。バクチでありつつもソンをしないシステムを開発しては、それへカネを賭け、カネによってカネを生む。

(アメリカは大丈夫だろうか)

という不安を持った。専門家の寺沢さんには決して反問できない不安である。

 資本主義というものは、物を作ってそれをカネにするための制度であるのに、農業と高度技術産業はべつとして、モノをしだいに作らなくなっているアメリカが、カネという数理化されたものだけで(いまはだけとはいえないが)将来、それだけで儲けてゆくことになると、どうなるのだろう。亡びるのではないか、という不安が付きまとった。

 19世紀末から、世界通貨はポンドからドルに変わった。イギリスの産業力をアメリカの産業力が圧倒的に凌駕したためである。そのドルを裏打ちしている産業力がもし衰えれば、金融や相場という、考えようによっては資本主義の高度に数理化された部分は、どうなるのか、素人の不安はとりとめもなくひろがるのである。】

 たぶん、この記述を読んだ時に私も同様な危惧を持ったと思う。

この本を読んだ当時、私は高知県会議員であったが、知り合いの衆議院議員から、アメリカは金融取引が主流になっており、日本は遅れている。

と、考えている日本の若手実業家グループがおり、彼らの話を聞くとその通りで、大儲けしている実業家がいる。との話であった。

私は、その話を聞いた時に、そんなに上手くいくのかね、と司馬氏と同じ危惧を持った。

数年後、2008年9月のリーマンショックとなって世界中が大不況に陥った。

日本は比較的被害が少ないといわれたが、それでも世界的不況の波をもろに被った。

司馬氏が危惧していた通り、米国はモノを作るという生産国の座を、中国などのアジア諸国に明け渡したままだ。